ゲッセマネの園(マタイ26章36節、マルコ14章32節)、火のともるたいまつとともにユダ、兵士、役人たちをご覧になられたイエス様。全知全能なる神の権威を持たれたイエス様は、すべての起こる出来事、すべての人間の心を知っておられました。
「誰を捜すのか」 イエス様のおことばに、苦難を自ら進んで受けるという意志をはっきりみることができます。イエス様の苦難は、受動的なものではなく、自ら進んで苦難を負われたのです。
捕らえにきた人々は「ナザレ人イエスを」と答えます。イエス様は「それはわたしです」と言われました。その時に特別なことが起こります。そのお答えははっきりと神の聖なる名を現す表現だったのです。旧約時代、モーセが燃える芝を通して神様の臨在に触れたとき、「その名は何ですか」と問い、神様は「わたしはある」と答えられました(出エジプト記3章14節)。そのお答えがイエス様のお答えと重なるのです。その場に居合わせた人々は、あとずさりし、倒れたとあります。父なる神様の名を言われたイエス様を前にして、人々はそのような行動に陥ってしまったのです。
イエス様はこれまで、どのようなときも悪の勢力から弟子たちを守り、配慮されてきました。父なる神様がイエス様にくださった者を一人も失うことがないということの成就です(ヨハネ17章12節)。
弟子のペテロはイエス様を守ろうと剣で大祭司の耳を切り落としましたが、イエス様はペテロを止められました。ペテロが良いと考え行動したことが、神様のご計画を中断することがあることを示されたのです。
大祭司カヤパの舅のアンナスのもとへと、役人に縛られ、連れて行かれたイエス様。大祭司の庭ではペテロが、門番の女からイエス様と共にいたことを指摘され、ペテロは軽蔑の意味をもつ言葉で答えたのです。「そんな者ではない」
大祭司の尋問に、イエス様はこの「世」に対して偽ることなく話してきたことを、そして、その内容はユダヤ人たちが知っているのだから彼らに聞きなさいと言われます。ユダヤの律法では、自分自身についての証言は真実とは認められませんでした(申命記19章15節)。大胆に答えられるイエス様を、そばで聞いていた役人は「大祭司にそのような答え方をするのか」と平手で打ちました。その行為に対してのイエス様のことば「もし、正しいなら、なぜ打つのか」は、十字架へと叫ぶ人々に対してのことばではないでしょうか。アンナスは、イエスを縛ったままで大祭司カヤパのもとへ。