恐れと孤独の十字架の道は父なる神様の栄光を現すためでした。十字架で父なる神様の栄光を現すことができるようにとイエス様は祈られました。それは、神様からいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるためです。そして、十字架での目的を成し遂げました(過去形)と祈られます。まだ、十字架におかかりになる前でしたが、この祈りは、神様のご計画は必ずなるのだという確信に満ちていました。
イエス様は、この世界が創造される前から栄光のうちに父なる神様と共におられました。神様の栄光とは、神様のご存在そのものであられる本質、お持ちになっておられるものが明らかになり、輝くことです。天地を創造され、すべての人を支配する父なる神様の栄光こそ、イエス様のうちにみることができます。そして、イエス様の復活は栄光に満ちていました。そのことにより、私たちはまことの父なる神様とイエス様を知ることのできる永遠のいのちに生かされています。
弟子たちは、父なる神様のもの、イエス様のもの。イエス様は弟子たちを守られてきました。それは彼らが滅びることがないという聖書の成就(ヨハネ6章39節)のためでした。しかし、弟子たちのそばから離れる時が訪れようとしています。イエス様は、残される弟子たちを父なる神の御名(その名を帯びる者の力を指します)のなかに保ち、この地上にある悪の勢力から彼らを取り去るのではなく、彼らを守ってくださいと父なる神様に祈られるのです。
真理は、神様にふさわしい者にするためにその者を罪から切り離し、神様の聖さに属する者とします。イエス様は罪と汚れのない神の御子なるお方です。しかし、そのようなお方が、十字架で人間の罪の聖めのためにいけにえとなられました。まさしく、イエス様は、世の罪を取り除く神の小羊です。そして、このことこそ、弟子たちを聖めることでした。この「真理によって彼らを聖め別ってください」との祈りは、イエス様の成してくださった恵みのうちに、聖書のみことばによって生かし続けてくださいとの祈りでもあります。
父なる神様がイエス様のうちにおられるように、信仰者が目的と思いにおいてひとつとなり、イエス様のうちにいるようになることを祈ってくださいました。それは、ひとつとなった信仰者、すべての教会がイエス様のうちにいることによって、世界の人々がイエス様こそ、父なる神様から遣わされたお方であることを信じ、父なる神様の愛を知り、イエス様の栄光をみるためです。