「しばらくするとわたしを見なくなるが、また、しばらくするわたしを見る」
イエス様のことばに弟子たちは論じ合い、質問をしようとします。その弟子たちの様子をご覧になられたイエス様は、「なぜ論じ合っているのですか。あなたがたの悲しみは喜びに変わります」と言われました。出産の時の苦痛をあげながら説明がなされています(旧約聖書にこの表現がよく用いられます)。
イエス様の十字架上での死は弟子たちに悲しみと絶望を与えました。しかし、三日目のイエス様の復活は、彼らの絶望を全く変え、最も大きな喜びを弟子たちに与えたのです。その変わらない喜びこそ、人々を堅く立たせるものであり、希望そのものです。嘆き悲しみを通してまことの喜びがもたされるということは、とても重要なことです。
弟子たちがイエス様を通して父なる神様に直接、願い求めることができる日が来るということです。まさしく、イエス様の十字架の身代わりの死があったからこそ、父なる神様の前に罪ある人間が出ることができます。そして、祈り求めることができるのです。そして、父なる神様は与えてくださるのです。あなたがたの喜びが満ちるために。
弟子たちは、父なる神様から受けたことを話されるイエス様を目の前にします。そして、あなたこそ父なる神様から来られたことを信じますと告白しました。しかし、イエス様は「あなたがたは今、信じているのですか。あなたがたは散らされ、わたしをひとり残す時が来ます」と言われました。そして、ついにはおひとりになられるイエス様、しかし、父なる神様が共におられました。これらのことは十字架の苦難の道で成就します。
散らされると言われた弟子たちに、イエス様は、困難があるが、ひるまずに前に向かって歩みなさいとすすめています。そして、すでにわたしは世に勝ったのですと宣言されました。それは、イエス様が十字架上でこの世の罪と死に打ち勝たれ、復活されることを確信してのおことばです。世に勝利をおさめられたイエス様のうちにある私たちは、臆病になることなく、恐れを持つことなく、イエス様のくださった平安のうちを歩む者とされているのです。前に向かって。