22〜31節から5つのことが読み取れます。
15章では、父なる神様がぶどうの農夫(1節)、ぶどうの木はイエス様で、枝は人間と譬えられます(5節)。ユダヤ人にとって、ぶどうの木は神の選民としての象徴でもあります(詩篇80篇8節参照)。しかし皮肉にもユダヤ人たちは神様に背きました(エレミヤ2章21節、ホセア10章1節)。それに対して、イエス様はまことのぶどうの木であると自己宣言されました。人種や国籍は霊的な保証ではありません。保証はただ一つであり、そのまことのぶどうの木であるイエス様のみです。イエス様にしっかりとどまりたいものです。
実とはキリストにある人生(生活)のことです。聖書は数多くの実について語りますが、悔い改めの実(マタイ3章8〜12節)はその例の1つです。実を結ばないなら取り除かれます(2節・6節)。結ぶなら刈り込まれます。刈り込みは痛いことですが、それによってさらに実を結ぶことになります。刈り込みの手段はイエス様のみことばです(3節)。多くの実を結ぶためにはイエス様にとどまることが重要です(4〜6節)。それによって願い事はすべえ叶えられ(7節)、父なる神が栄光をお受けになります(8節)。みことばを読み、お祈りをすることに励みましょう。
9〜10節では2つの秩序を見ることができます。
愛と従順はコインの両面のように密接に関係しています。愛は従順を生み出し、従順は(さらなる)愛を生み出します。この関係は夫婦関係(エペソ5章21〜33節)、親子関係(エペソ6章1〜4節)にも言えるでしょう。イエス様の愛にとどまるとは、イエス様が父なる神様の戒めを守るように、イエス様の戒めを守ることなのです。それによって、イエス様の愛をより体験します。そして、イエス様の戒めを守ろうとさらに思うようになります。