前述のように、イエス様の栄光は十字架で死ぬことを指します。十字架を通してイエス様は神の大きな愛をあらわし、神の御心への完全な従順をもあらわして、神に栄光をもたらします。そのため神はイエス様に栄光を与えられます(32節)。人間には他人に認められ、尊敬されるというニーズがあり、そのために高学歴、多い収入、誇れる結婚相手を探し求めます。これらの営みはしてもいいのですが、神からの栄光を受けなければ、そのニーズを完全に満たすことはできないでしょう。
イエス様は弟子たちから離れる(33節)ので、彼らに愛し合うことを命じました(34節)。これはイエス様の弟子の印しです(35節)。残念なことにクリスチャンたちは正反対のことを行っていると言っても過言ではありません。
ペテロはイエス様の行方を聞き(36節)、命を捨てるまで従うと断言しました(37節)。しかし、ペテロは「イエスを知らない」と言うと、イエス様は預言されました。ペテロはある意味ではユダに似ています(参照:21〜30節)。前もって計画を立てるという点では異なります(マタイ26章14〜16節)。イエス様は、その計画を知った上でユダとともに食事をし、またその足を洗いました(ヨハネ13章1〜20節)。イエス様はなんと寛大なお方でしょう。霊の激動を感じた(21節)とは、失望や悲しみによる精神的動揺と言えます。にもかかわらず、イエス様は21節のことばを通してユダに悔い改めのチャンスを与えました。
誰が裏切るか、弟子たちにはわかりません(22節)。ペテロはイエス様の隣にいる弟子(ヨハネ)に質問するように合図しました(23〜24節)。ヨハネは自分のことをイエスが愛しておられた者と自称します。イエス様は不平等に愛するからではなく、ヨハネは愛されていると心から感謝し、また自分がその愛を受けるのに相応しくない者だという自覚なのです。
ヨハネはイエス様に質問しました(25節)。イエス様は26〜27節に書いてあることばと行動をもって答えられました。他の弟子たちに理解されない(28〜29節)ことから、26節のことばはヨハネにだけ話されたと考えられます。27節にあるイエス様の言葉によってユダはその場を退きました(30節)。指導者たちは早くても祭りの終わった後にイエス様を殺そうとしました(マタイ26章3〜5節)。しかし人間の計画ではなくイエス様の預言(マタイ26章1〜2節)の方が実現されます。これはいわゆる神様の主権なのです。この主権を握る神様にもっと信頼し、生きる力と慰めをいただきましょう。