12章の終わりの部分はイエス様の群衆への奉仕を扱う2〜12章全体の締め括りでもあります。ポイントは「わたしを信じる」かどうかです(44節)。信じることによって、多くのことが伴います。
イエス様は、父なる神様に遣わされ、命じられたこと、言われたことを実行し、語っていたのです(49〜50節)。私たちを贖うために、父なる神と同等であるイエス様が身を低くし、そこまで犠牲を払ってくださいました。神様の命令などは人間の自由を邪魔すると捉えがちです。しかし、パラシュート(落下傘)のように、縛ることによって逆に命を守ってくれるものなのです。これが「神様の命令が永遠」の意味です。神様の命令を感謝し、守り行いましょう。
13章の洗足の場面は、過越の祭りの前の、夕食を食べている間でした(1〜2節)。そのとき、万物は父なる神様から自分に渡されたとイエス様は知っておられました(3節)。この世の中に悪魔が居り、また活動しています(2節)が、イエス様の知識や権力を越えることはありません(1〜3節・10〜11節・18節)。足を洗う(4〜5節)ことは、異邦人の奴隷にしか命令できないほど卑しい仕事なのです。万物を渡されたということは最高の地位にあることを意味しますが、それでも最低の仕事を惜しみなくなさったのです。なんとすばらしいことでしょう。私たちはその模範に倣うべきです(12〜17節)。つまり、プライドを捨て、身を低くし、仕え合うことです。