過越の6日前にイエス様が再びベタニヤに来られ、ラザロたちと食卓に着いておられました(1〜2節)。マルタは給仕していました。マリヤは香油をとってイエス様の足を髪の毛で拭いました(3節)。その香油は300デナリ、つまり現在の300万円に相当するので、会計係のユダは貧しい人に分け与える方がいいのではないかと呟きました(4〜5節)。しかしこれは自分の得になるという下心から出たものでした(6節)。イエス様はマリヤの行動を良しとしてくださいました(7〜8節)。感謝を込めて、マリヤのように惜しみなくお金や時間、努力をイエス様に献げましょう。
香油に塗られて次の日、イエス様はエルサレムに来られられました(12節)。古代歴史家とされるヨセフスによるとエルサレムに集まる人数は270万人に上ると言います。その人たちがしゅろの木の枝を取ってイエス様を出迎えました(13節)。この風景は最近テレビで出て来る北朝鮮の人々が国旗を揚げて金正日氏を歓迎する様子と似ているかもしれません。あまりにもすごい風景で、イエス様を憎む指導者たちは当然心細くなりました(19節)。
あれほどイエス様を出迎えた群衆がたった5日後には「除け。除け。十字架につけろ」と叫ぶようになります(19章15節)。なぜそうなったでしょうか。群衆が出迎えたのはラザロを蘇らせたしるし(奇蹟)を聞いたからでした(17〜18節)。彼らの信仰はイエスへの信仰ではなく、奇蹟への信仰であると言えます。このような信仰は全くの不信仰よりはましですが、堅実なものではありません。
イエス様はろばの子に乗られました(14〜16節)。これはゼカリヤ9章9〜10節に書いてあるように、イエス様は群衆が思うような王ではありません。戦争を巻き起こすのではなく、平安をもたらし、イスラエルの民のためだけではなく地の果てまでの諸国民のためなのです。このような聖書の教えを信じることは人間の都合ではあまり面白くないものかもしれませんが、堅実な信仰に導くのです。このような信仰を願い求めようではありませんか。