マルタに言われて、マリヤはイエス様のところに行きました(28〜31節)。悔しさ(32節)と悲しみで泣いているマリヤを見て、イエス様は涙を流されました(33〜35節)。私たちの信じるイエス様は無情なお方ではありません。イエス様は私たちの悲しみを知っておられ、ともに悲しまれることができる神様であることを脳裏に焼きつけましょう。
慰めに来たユダヤ人たちもマルタもイエス様の力を疑いました(36〜39節)。それに対し、「信じるなら、あなたは神の栄光を見る」とイエス様は言われました(40節)。お墓の石を取り除けてもらった後、イエス様は祈られました(41節)。これは実に人々が信じるためでした(42節)。そしてイエス様は3日間以上死んだラザロを蘇らせました(43〜44節)。多くのユダヤ人がイエス様のなさった奇蹟を見て信じるようになりました(45節)。悔い改め、イエス様には奇蹟をなせる力があると信じようではありませんか。
信じるどころかイエス様を危険人物とする人たちがいました(46〜48節)。ユダヤ人の指導者たちがカヤパ大祭司の案(49〜50節)に従いイエス様を殺そうと議会で決めました(53節)。このためイエス様は公然と歩かなくなります(54節)。これは人を恐れるからではなく、“時”がまだ来ていないからと思われます。過越祭が近づいて多くのユダヤ人たちがエルサレムに上って来ました。身を清めるために来た人(55〜56節)もいれば、イエス様を捕まえようと謀る指導者たちもいました(57節)。このように、私たちが住んでいるこの世はなんと悪いところでしょう。しかし本書の著者はその現実だけに目を留めずに、人間の悪い営みでさえ、神様の預言と見ています(51〜52節)。暗い現実を受け止めながら、神様からの視点で物事を見抜いて、全知全能なる神様がいること、働いておられることを忘れないでいきましょう。