イエス様の愛していた兄弟たちがベタニヤの村にいました。マルタとマリヤ、そしてラザロでした。そのラザロが病気でした。その知らせを受けたイエス様の行動は、理解不能のような気がしてしまいます。6節に「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」のです。「そのようなわけ」とはどのような「わけ」でしょうか。4節のイエス様のことばにあります。
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。
神の子がそれによって栄光を受けるためです」
私たちは、「神の時」を覚えなくてはなりません。それは、時に、私たちの考えるような時と違うこともあり得るのです。しかし、神様の愛する者に対する時は、私たちに「幸い」を成し続けて下さいます。私たちも神様に愛されている者であることを覚えましょう。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
(伝道者の書3章11節)
もう一度、ユダヤ(ベタニヤ)に行こうとすることを聞いて、弟子たちは恐れました。8節には「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか」とイエス様に言います。先にありました(10章参照)ことを思いますと、弟子たちの言い分は、うなずけることかも知れません。しかし、イエス様はラザロをよみがえらせるために向かいます。
「愛は地球を救う」というキャッチフレーズでテレビがチャリティーをしているのを見たことがあります。私は「神の愛は人を救い、世界を変える」と信じます。イエス様の動機は「愛」です。愛するゆえに、石打ちにされるかもしれないユダヤへ向かいました。いのちがけです。この愛ゆえに、ラザロはよみがえります。悲しみに暮れていた、マルタとマリヤは、この出来事を通して、更に、イエス様を愛し、礼拝したことでしょう。
今日も、イエス・キリストは生きておられます。このお方にあって「希望」が私たちに与えられています。主イエスは、私たちにも、いのちをかけて愛してくださったのですから。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」