宮きよめという祭り(内容については聖書注解書等参照)の時、イエス様は宮の中におられました。ソロモンの廊を歩いていると、ユダヤ人たちに取り囲まれます。彼らは、「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください」と質問します。
イエス様は、彼らの「不信仰」を指摘されます。不信仰は、私たちに神のことばを何の力もない、味けのないものとします。今日、私たちの心はどうでしょうか。「馬の耳に念仏」という言葉がありますが、もし、私たちが、聖書を読んでも、礼拝でメッセージを聞いても、何も感じなくなっているとすれば、心を点検してみましょう。私たちの心に、「不信仰」という蜘蛛の巣が張りめぐらされているかも知れません。
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
(詩篇139篇23〜24節)
「わたしと父とは一つです」とイエス様は、語られました。それを聞いた不信仰なユダヤ人たちは、イエス様を石打ちにしようと取り上げます。それも、「また」とあります。8章でも同じことが記されています。いつまでも、心を堅くし、イエス様に背を向けていると、私たちは石を取り上げてしまうのです。「また」です。何度も、何度もです。不信仰から出る、弱さ・醜さがここにあります。
ユダヤ人たちは、聖書(旧約聖書)を読み、理解し、その教えを大切にしていました。にもかかわらず、石を取り上げました。もし、イエス様が、悪いことをしていたなら、石を取り上げられても仕方のないことかも知れません。しかし、イエス様は、「父から出た多くの良いわざ」を示し、行ってきたのです。「ことば」と「行い」において、「わたしと父とは一つです」の、ことばを証されたのです。
私たちは、イエス様に石を取り上げますか。神様に対して、不信仰・つぶやき・怒り・憎しみという石を取り上げますか。それとも、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた地方の人たちのように、「『ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。』と言った。 そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた」とありますように、信仰の手を取り上げますか。
ご一緒に「石」を捨てて、「信仰」の手を挙げましょう。主の祝福が私たちに豊かに注がれます。