私たちは、時々、自分という者を過大評価しすぎることがないでしょうか。肩書きや名誉など、それ自体は、悪いものではありませんが、そのことで、教えられる心をなくして、盲目な心になってしまうことがあります。今日の聖書箇所を読みますと、霊的指導者を自認していたパリサイ人たちは、まさにそのようでした。生まれつき盲人であった人が癒されたという奇蹟は、実際に起こったことでした。しかし、それを認めることがパリサイ人たちにはできませんでした。そして、彼の話を聞くには聞きますが、どうしても納得できずにいたのです。その姿を見て、癒された(盲人であった人)人は、皮肉を込めてパリサイ人に言います。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか」(27節)
今日、私たちの心は、心の目は開かれているでしょうか。教えられやすい心を持っているでしょうか。
聖書のことばに注目しましょう。
「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」(41節)
神様の恵みをいただく秘訣がここにあります。
「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける」(箴言3章34節)
生まれつき盲目であったが、今は癒され目が見えるようになった人を、パリサイ人たちは会堂から追放します。そのことを聞いたイエス様は彼を見つけ出して、ご自分が誰であるかを語られました。彼は主のおことばを聞き、「主よ。私は信じます」(38節)と言って、イエス様を礼拝しました。
私たちのささげる主への礼拝の姿がここにあります。礼拝とは、神様の方が、私たちを見つけ出してくださり、私たちを招いておられる恵みの祝宴なのです。私たちに何か特別な資格があるからではありません。この癒された人のように「主よ。私は信じます」と言って、心から主に礼拝をささげましょう。
私たちの礼拝の姿勢はどうでしょうか。礼拝が、義務になってはいないでしょうか。「行かないと牧師先生に叱られるし、奉仕もあるし、仕方ないから・・・」と私たちの心が主への感謝がなくなってしまっているなら、もう一度、主が私たちに成してくださった「恵み」を覚えましょう。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
(詩篇103篇1〜5節)