今日の聖書箇所に登場します、盲人は、生まれつき盲目というハンディを背負っていた人でした。8節には、物乞いして生活していたことが窺えます。生まれつき盲人である上に、物乞いをしなければならない状況を考えますと、その辛さ、貧しさ、惨めさ、悲しみなどというものを感じていたんだろうなぁ・・・と想像します。その盲人に、世の光であるイエス様のスポットライトが当てられるのです。
一方で、この盲人を見て弟子たちはイエス様に尋ねます。2節に「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」という質問です。この質問は、弟子たちだけでなく、私たちの考え方、人生の見方でもあるのではないでしょうか。病気になるとか、事故に合うとか、そういうことは、罪となにか因果関係がある、そういうふうにだけ考えてしまいがちです。
私たちは何か悪いことが起こると、「何か悪いことをしたんじゃない?その罰が当たった」というセリフを言います。特に、親が小さな子どもによく言うのを聞きます。そうすると、大人になっても、「因果応報」ということが、どこかで自分の考えの中にこびりついてしまうのです。日本人に限らず、弟子たちも同じであったようです。しかし、3節でイエス様は答えられます。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」
ここに世の光である、イエス様の答えがあります。私たちの意識の改革、価値観の転換、様々な考え、見方の転換を覚える、とても大切な主のことばです。
盲人の目に泥を塗って、イエス様は言われます。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい」(7節)と。彼は、イエス様のことばを信じて、信頼して、自分で池に向かったのです。そして、言われたように実行しました。すると、盲人は癒され、目が見えるようになりました。
盲人は、イエス様のことばを信じて、従ったのです。
一方で、その癒された盲人を見ても疑う人々がいました。彼らは、盲人であった彼のことばを聞いても信じようとしませんでした。疑う余地などないはずなのに、彼らは疑いました。ここに、信じる者と信じない者の違いを教えられます。私たちも今日、主のことばを信じましょう。そして、神様を信頼して生かされていきたいと思います。
私たちは、信じない者にならないで、信じる者にならせていただきましょう。