「相手の話が聞けない」ということは、本当の意味で「交わり」ができないことだと思います。相手の話を聞くには、自分の主張を止めなくてはなりません。ユダヤ人たちは、イエス様のことばに耳を傾けることをしませんでした。そればかりでなく、自らの主張を止めませんでした。ここに、大きな問題があります。
ユダヤ人たちは、「私たちの父はアブラハムです」と主張します。それを聞いてイエス様は答えられました。ユダヤ人のことばにイエス様は耳を傾けておられたのです。しかし、彼らはどうだったでしょうか。43節にありますように「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです」と記されています。
私たちも、神様に対して同じようなことをしていることがあります。自分の願い事だけを祈り、自分の主張だけをして、神様のことばを聞くということが、なかなかできないことがあるのではないでしょうか。今日、主は私たちに何を求めておられるのでしょう。御言葉と祈りのなかで、神様と交わりの時を持たせていただきましょう。「待ち望む」という姿勢を、主に祈り求めたいと思います。
ユダヤ人にとって、アブラハムは特別な存在であったことは言うまでもありません。ですから53節にありますように「 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか」という問いかけがイエス様になされました。
イエス様は彼らに対して58節にありますように、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」と言われました。そして、アブラハムでさえ、56節にありますように「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました」と答えられます。この事実は、神様がアブラハムを召された時、神様がアブラハムに与えられた約束に基づいたことばです(参照:創世記12章1〜3節)。
私たちは、誰を信じるのでしょうか。誰に信頼して生きていくのでしょうか。死んだアブラハムですか。それとも、十字架で私たちの罪のために死んで下さり、3日目によみがえられて贖いを完成して下さったお方である、イエス・キリストですか。今日、主の語られることばに耳を傾けましょう。
「神から出た者は、神のことばに聞き従います」(47節)