新改訳も、新共同訳も、7章53節〜8章11節を括弧の中に入れています。53節の新改訳注*にもあるように、古い写本のほとんどがこの部分を欠き、また、含んでいたとしても、挿入する場所など、それぞれの写本間の相違が大きく、さらに前後の文脈から内容も文体も突出しており、「『聖書』ではないのではないか?」とも言われる箇所です。
ただ、たとえ初期の頃に加えられた記事だとしても、15節の「わたしはだれをもさばきません」という例証として挿入されたと考えれば「なるほど」とも思いますし、いかにも「イエス様らしい」ので、修道院の写本作業において、中世から連綿と削除されることなく残ったのでしょう。これも、聖書の真の著者である神の導きのうちにあると信じます。
さて、律法学者やパリサイ人たちの告発は、カイザルへの税金の件(マルコ12章13〜17節)と同様、進退両難でした(6節参照)。石打ち刑を肯定すれば、当時のユダヤ地方で死刑執行権を独占していたローマ帝国の統治に反逆する者として訴追されるおそれがあり、他方、女性への同情やローマ当局をはばかって石打ち刑を否定すれば、律法を軽視するものとしてユダヤ社会から訴追されるものでした。
これに対し主イエスのお答えは、一方に偏ったものではなく、誰も否定できない道義に基づいたものでした。「律法のとおりに、ただし、当然ではあるが、罪のさばきを執行できる者は罪のない者である」と。
しばらくのとき、主イエスは地面に何を書かれていたのでしょう?ともかく、人々はひとりひとり出て行き、最後に主イエスと姦淫の女が残されました。いつもは義人と自認する傾向にある律法学者やパリサイ人(ルカ18章9節参照)も、このときは己の罪を示されたのでしょうか。石を投げずに立ち去りました。
確かに、原罪のうちに生きる人間には、「罪」をさばく権能はありません。しかし、主イエスには、さばく権能が父なる神から与えられていました。けれど、主イエスはさばきませんでした。まるで、「あなたの罪はすべてわたしが身代りになるから、わたしもあなたをさばかない」と言うように。
6章で「わたしはいのちのパンです」と語った主イエスは、8章12節で「わたしは世の光(いのちの光)です」と語ります。
その主イエスは、姦淫の女との別れ際、「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と告げました。
主イエスによってさばきを免れ、いのちを得た人です。きっと、次のみことばのとおりに生きたことでしょう。
「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(12節)