3〜11節において、「イエスを告発する理由を得るため」(6節)に、律法学者たちが姦淫の場で捕えられた一人の女性をイエス様のところにつれてきた出来事が記されている。
「律法によればこの女は死刑にすべきだと書かれているが、あんたならどうする?」と律法学者たちは聞く。それは、もしイエス様が死刑を認めないで女性を赦すと言えば、それは明らかに律法違反者としてイエス様を捕える口実ができる。あるいは、この女性の死刑を認めるなら、ローマの支配下にあった当時のユダヤには死刑の決定権はなかったそうであるから、ローマに反逆するものとして訴える口実が得られる、との策略であった。いずれにしても、純粋に姦淫の罪に対する憤りからの質問ではなく、イエス様に対する悪意に満ちた質問であった。
その状況を見抜いておられたイエス様は、怒りか悲しみからか、しばらくはお答えにならなかった(6節)。しかし彼らがしつこく問いつめたので、イエス様は身を起こして「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(7節)と答えられた。ルカ20章20〜26節にある、カイザルへの税金が正しいかどうか、やはりイエス様を陥れようとした質問のときと同様、イエス様は「YES」でも「NO」でもない、その本質を見抜いた見事な回答をされたのだ。
興味深いのは、その答えを聞いて、律法学者、パリサイ人は、「年長者」から一人一人出て行ったことだ。彼らであっても、年長者には年月重ねてきただけの思うところがあったのであろう。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(12節)のみことばは、文字どおり私たちの心を明るく照らしてくれる。それは策略や罪に満ちた薄暗い世のなかを歩き、ときとして周りを見失ってしまう私たちにとって、唯一の指針となる、真実を照らす一条の光である、と。
同時にマタイ福音書5章にある「あなたがたは、世界の光です」というみことばも真実である。「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5章16節)とあるように、私たちもこの薄暗い世のなかにあって「光」となって輝いてゆけ、とイエス様は語っておられる。
難しいことはない!とチャレンジしていきたい。私たちは「光」であるイエス様を信じている。そのお方は私たちのうちにいてくださる。そのお方が私たちのうちから輝いてくださるからだ。「私が、自分が」と、はりきっているときには難しいかもしれないが、イエス様を信じ、その姿に似た者になりたいと「決心」したそのときから、私たちは輝き始めることを、今日もぜひおぼえていきたい。