第20金曜【ヨハネ7:25-53】



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 ユダヤ最高議会の議員も含んだユダヤ人たち(ユダヤ教社会の指導者たち)は、主イエスを逮捕し処刑しようとしますが、「時」(30節・8節)に阻まれます。主イエスは大胆に語り続け、群衆は信じる者・信じない者に割れます(43節)。

 信じない理由の1つに、「語る意味がわからない」(36節)というのがあると思います。確かに、21世紀の私たちにはわかることでも、当時の彼らにとっては未来のことであり、信仰をもって聞かなければ理解できないことでした。実際、主イエスと寝食をともにした十二弟子でさえ、わからなかったほどです(ルカ18章31〜34節)。

 もう1つの理由に、思い込みがありました。「キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいない」「けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている」(27節)
 彼らは主イエスがガリラヤ生まれだと思っていました。居住・移転の自由が制限された当時にあっては、たいていの人が生まれた地で生涯を過ごしました。だから、目の前にいるガリラヤ育ちの大工のせがれも、ガリラヤ生まれのガリラヤ育ちに違いない、と思っていました。
 彼らの言う「キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る」というのは間違っていません。けれど、今では教会学校の子どもも知っているクリスマスの出来事(ルカ2章1〜20節、マタイ2章1〜23節)は、知らなかったのです。

 「律法を知らないこの群衆は、のろわれている」(49節)
 現代の私たちには滑稽にさえ見えます。「知らないのはどっちだか・・・」と。
 「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」(第一コリント8章2節)というみことばが、思い出されます。

 それにしても、もしすべてを知っていたら、彼らは信じていたでしょうか?
 そうかもしれません。確かに、主の十字架後の使徒の時代以降、キリスト教は爆発的に広がります。
 しかし、もし知りさえすれば福音を信じるというのなら、知識と情報にあふれた現代の人たちは、皆クリスチャンになっているはずです。

 渇きを知り、いや渇きを認め、主イエスのもとに行き、へりくだって飲む者でありたい、と思います。