一連のユダヤ人との問答やイエス様ご自身の語る言葉を聞いて、「この方はキリストではないのか」と信じる者たちが、群衆や祭司に関わる人たちのなかにさえ出始めていた(26・31・40・46節)。
そこにはいのちをかけて語り続けるイエス様の姿があったからだ。28節には「イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた」とあり、37節にも「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた」ともある。大声で、叫んで(cried out)語るイエス様だ。
弟子たちや身近な人々に対して、静かにじっくりと語られる姿は、心優しいイエス様から容易に想像できるが、人々の前に立ち「大声で」圧倒的なメッセージをするイエス様の姿が、ここにはある。それは語るべきことがあったからだ!わたしはあなたたちに聞いてもらいたいことがある、受け入れてほしいことがある、それは父なる神はあなた方一人一人を愛しており、救いの手を差し伸べておられることだ!とイエス様は、近くの者にも遠くの者にも良く聞こえるように、必死に語りかけているのだ。渇いているならわたしのもとに来て飲みなさい、信じる者は「生ける水の川が流れ出るようになる」(38節)と招いておられるのだ。
どんなに受け入れられない状況にあっても、みことばを聞き、信じる人々がいる。だから私たちも「大声で」語り続ける必要がある。人々は聞いて耳に入ってこなければ、知りようがないからだ。「大声で」の目的は、できるだけ多くの人に効果的に聞こえるように、だ。現代の私たちにはいろいろな方法が考えられるだろう。大宣教命令に沿って、現代のニーズに応えたユニークかつ大胆な方法をもって福音を宣べ伝えていく工夫が、私たちには必要ではないだろうか。
一方、矛盾しているようだが、アッシジのフランシスコの言葉も添えておきたい。「いつの時でも福音を宣べ伝えなさい。もし必要ならば、言葉を使いなさい」
言葉に勝るものも多くあるであろう。普段の私たちから溢れ出るキリストのかおり(第二コリント2章15節)が、身近な人たちに対して何よりも効果的な証しとなることをおぼえて、今日もそれぞれ置かれた場所において花を咲かせていきたい。