第20木曜【ヨハネ7:1-24】



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 「仮庵の祭」(2節)は、「過越の祭」「五旬節」と並んでユダヤ三大祭の1つです。
 毎年、秋の収穫祭の頃(出エジプト23章16節)、出エジプト後の荒野時代の仮小屋生活を1週間体験しながら、荒野の旅を守り導いてくださった主の恵みを思い起こします(レビ23章34〜43節)。

 その祭りに行くことを勧めた「イエスの兄弟たち」(3節)、いわば主イエスの最も身近な人たちでさえ、当時は主イエスをキリスト(救い主)と信じてはいませんでした(5節)。主イエスの「わざ」(3節・21節)は、祭りの余興ではなく、イエスをキリストと証しする「しるし」でしたが、兄弟たちはその真意を信仰によって悟り得ませんでした。
 兄弟たちだけではありません。ユダヤ人たち(ユダヤ教社会の指導者たち)も、群衆も、「わざ」を見、知恵に満ちた「教え」(14〜15節)を聞きましたが、結局は、示された罪(7節)を悔い改めず、むしろ救い主を殺してしまうのでした。「殺そうとする」と言う主イエスに、群衆は「気が狂っています」(20節の新改訳注*)と答えますが、後に現実のものとなります。

 人々が主イエスを殺そうとする理由に、安息日の癒し(5章2〜9節)があったことが示されます(21〜23節、参照:5章18節)。確かに、安息日を犯す者は殺されなければならないと律法は定めます(出エジプト31章14節)。しかし、主イエスのなさったことは、本当に安息日を犯すことだったのでしょうか?
 そもそも安息日は、三大祭と同様、主のみわざと恵みを覚える日です(申命5章15節)。割礼を施すことができるのも、祭りをしてよいのも、「主を覚える」という趣旨ゆえです。ならば、人の全身を健やかにして、人々が主のみわざと恵みを覚えることも、安息日の趣旨に合致するものであり、安息日を犯すことにはならないはずです。
 にもかかわらず、ユダヤ人たちはその趣旨よりも、「休む」という行ない(表層)の部分を重視して「何もしてはいけない日」と解釈し、様々な禁止規定を神の定めた律法に付け加えてきました。そして、その解釈規定によって、主イエスをさばいていたのでした(24節)。自分たちの解釈に固執し、むしろ罪のない者を殺してはならないという十戒(神の定めた律法の核心)を破ろうとしていたのでした(19節)。

 ユダヤ人たちは、律法を守ろうとしながら、なぜ律法からずれてしまったのでしょうか。そのヒントが17節にありそうです。「神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、・・・わかります」
 神のみこころを行なおうと願っているか・・・。聖書通読をする私たちにも、問われているような気がします。