第20木曜 ヨハネ7:1-24



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】
「罪を指摘されるとき」

 「(世は)わたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことあかしするからです」(7節)この言葉どおり、ユダヤ人たちはイエス様を憎んだ。
 ユダヤ人たちがイエス様の言葉を理解することができないのは、父なる神様のみこころの本質を求め行なおうとしないからであり、モーセからの律法を研究しながらも本質のところでは決して守ろうとしなかったからである(16〜19節)。つづく21節からも具体的な話をされてそれを裏付ける(イエス様はおそらく、安息日に病気の人を癒した5章2〜16節のエピソードのことを言われている)。つまりユダヤ人たちの律法の本質をみようとしない「行ないが悪いこと」であることをはっきりと指摘して「あかし」したのである。
 人々から「先生」と呼ばれているようなユダヤ人や律法学者たちにしてみれば、どこからでてきたかわからないような(しかし実力のある)若者に、偽善者呼ばわりされて、しかも言い返せないほどの正論でもって攻められたものだから、イエス様のことはそれはそれは憎かっただろう。彼らにしてみれば「先生」という立場のプライドがさらにそうさせたのかもしれない。途方もない長い時間を律法の研究に費やしてきた彼らの「自信」がそうさせたのかもしれない。

 私たちも罪を指摘されたとき、とっさになんとか自分を正当化しようとし、指摘した人の間違いを見つけて文句を言いたくなることがある。自分のプライドを守ろうとするのだ。何年もの篤き信仰を積み重ねてきたクリスチャンでも、この危険性を否むことはできないのではないか。自分を中心に考えているときには、どんなに努力しても、この危険性から逃れることはむずかしいと思う。
 17節には「神のみこころを行おうと『願う』なら」と書かれている。神のみこころを行なうことができたなら、とは書かれていない。自分のプライドではない、神様はこのとき何を望んでおられるのか、それに従うのだと「決断」ができれば、それにふさわしい者としてイエス様が整えてくださるのだ。謙遜になり、理解する力を与えてくださる。
 「うわべ」(24節)による行ないは自分中心に物事を考えているときのひとつの特徴であろうと思う。しかし謙遜に「神のみこころを行おうと願い」決断したとき、すでにイエス様がともにいて助けてくださることをおぼえていきたい。


【信仰告白】

[2] 使徒信条