「いのちのパン」のメッセージは続く(〜59節)。わたしがいのちのパンであり、わたしを信じる者は永遠のいのちを持つのだ、と繰り返しイエス様は説く。
しかしここで、「天から下ってきた」とか「わたしの肉を食べその血を飲む」といった言葉に戸惑いを覚え、つまずき、離れ去っていった人々がでてきたと書かれている。しかも「弟子たちのうち」にである(60・66節)。
特に53〜58節のくだりは、今一冊の聖書として読むことのできる私たちにとっては、十字架による苦難を表しているのであり、また聖餐式の大切さを思い起こさせる箇所としてとらえることができる。しかし、言葉そのものしか理解しようとしなかった人々にとっては、これらの言葉がつまずきとなってしまったのだ。あるいは、当時ローマ帝国から解放してくれる「王」を期待していた人々にとっては、いよいよ自分たちの求めていた王の姿とは違うということで、離れていってしまったのかもしれない。
イエス様と出会い、その救いを受け入れる。信じるか否かは、その人の決断に任されている。こればかりは各自が決めるべきこと、こればかりは人のせいにも神のせいにもできない。イエス様からの救いの言葉を聞きながら、それでも受け入れない、と決めた人々の責任がそこにある。66節で離れていった人々を見送るイエス様の目は悲しみに満ちていたことであろう。一人一人のことを愛しておられていたであろうから。イエス様は振り返り、十二弟子に「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」(67節)と言われた。
あなたがたはわたしの言葉を聞いてどう決心するのですか、と私たちにも語られている。68〜69節で「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます、私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」とペテロが(素晴らしく)答えたように、毎日の聖書からのメッセージに対して、「主よ、あなたは永遠のいのちのことばをもっておられます!」と、これがわたしのあなたに対する決心です!と、今日も力強く告白していきたいと心から願う。