41節以降、主語が、ガリラヤの群衆から「ユダヤ人たち」(ユダヤ教社会の指導者たち。1章19節参照)に代わります。
「わたしはいのちのパン」(48節)
「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物」(55節)
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」(54節・56節)
そのまま受けとめると、ユダヤ人たちと同じイメージを抱きます(52節・60節)。霊的な理解が求められます(63節)。
主イエスの真意は、十字架の上で裂かれた肉、流された血潮にあります(マタイ26章26〜28節)。それを食し、それを飲むとは、主の十字架の死が自分の罪のためであったことを信じ、十字架の死にあずかることです。そして、主イエスの復活と同様、信じる者もまた、新しい者として生まれ、主イエスにあって生きることを意味します(ガラテヤ2章20節)。
いみじくも「ひどいことばだ」(60節)と言われますが、十字架はそれほどに残酷なものなのです。そして、私たちの罪は、主イエスを残酷な十字架にかけるほどに恐ろしいものなのです。十字架がなければ、赦され得なかったのです。
主イエスを信じる者の群れである教会は、以来2000年間、これを記念し、信仰告白として、聖餐式を守ってきました(第一コリント11章23〜26節)。主の死を告げ知らせ、永遠のいのちのことば(68節)を宣べ伝えるものとして・・・。