第20火曜【ヨハネ6:22-40】



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 「永遠のいのちに至る食物」(27節)を得るために、何をすべきでしょうか?
 それは、「神が遣わした者を信じること」(29節)、つまり主イエスを信じることでした。

 ユダヤ教の厳しい戒律のなかで生きていた人々にとっては、「たったそれだけ」という感覚だったはずです。今の私たちにも、「信じるだけでよい」というのは、あまりにも簡単すぎて、「もっと働かなくてよいのか?」と思ってしまうほどです。
 しかし、むしろ、「信じる」という単純なことのほうが、難しいのかもしれません。人々はさらに、信じることができるように、「しるし」(奇蹟)を求めました(30節)。かつて、出エジプトのときに与えられたマナのような「しるし」を。

 これに対し主イエスは、「わたしがいのちのパンです」(35節)とお答えになりました。「しるし」としてのパンはわたし自身です、と。それは、別の箇所で語られた「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」(マタイ12章38〜40節)を思い出させます。主イエスの十字架こそ、唯一の「永遠のいのちに至るパン」の「しるし」なのでしょう。

 ・・・と言いつつも、福音書には、信じるための「しるし」が随所に記録されています。まるで、主のあわれみがあふれるように。実際、ここの群衆も、まさに前日(22節参照)、男だけで5,000人を養うという奇蹟のパンを、自分たちで口にしたばかりでした。

 結局、「しるし」を見たいというより、腹を満たしたいというのが、群衆の本音だったのかもしれません。高尚なたましいの救いを言う前に、今日を生きる一切れのパンをよこせ、と。当時の貧困が現代日本人の想像以上にすさまじいものだったことを思うと、人々の「食べたい、生きたい」という願いを、尊重しないわけにはいきません。

 でも他方、「人は何のために生きるのか?」とも思うのです。何のために明日のパンを得ようとするのか。そのパンを得て、生きるのは、なぜか?
 人の生きる目的、それは、造られた目的に生きることだと思います。造られた目的とは、「神は愛」(第一ヨハネ4章16節)といわれる神のかたちに造られた存在(創世記1章27節)として、永遠の神の愛に生きること。
 そして、その永遠の神の愛に生きるためには、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4章4節)必要があります。人となられた「ことば」(ヨハネ1章14節)である主イエスが、「いのちのパン」として、人の、人として生きる歩みには必要なのです。「ことば」も、「パン」も、人には必要なのです。
 (マタイ4章4節とヨハネ1章14節の「ことば」には、それぞれ「レーマ」「ロゴス」と違う単語が使われていますが、同義と解釈しました)

 だから、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(27節)、信じなさい(29節)、と主イエスは力説しました。それが父なる神の「みこころ」(40節)であるから。
 それに、みこころを求めて生きる者を、神は決して見捨てない、とも約束されています(マタイ6章33節)。