25節から始まっているイエス様と群衆の問答は、一見噛み合っていないようであるが、よく読むと真理へとたどり着く一連の流れが見えてくる。
「いつここに来たのですか?」という群衆の問い(25節)に対して、なぜ彼らがイエス様を捜しておられたかという群衆の心理について答えられた。それが重要であったからだ。そこでイエス様は、「(あなたがたが捜して求めている)なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と答えられている(27節)。
今度は群衆は「『永遠のいのちに至る食物のために働きなさい』とあなたは言うが、私たちはその神の『わざ(働き)』のために『何をすべきなのか』?」と質問する(28節)。すると今度はイエス様は「何をすべきか」には答えられずに、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」(29節)と返した。つまり「何をすべきか」を考える前に、目的である「神のわざ」とは何か、彼らに正しい知識を教えられたのだ。
すると「では、そういうあなたを『信じる』ために、あなたはどんな奇跡を見せてくれるのですか?あなたは何ができるのですか?」と群衆は質問をする(30節)。彼らはつい前日にあれほどの、最大規模の奇跡(五千人への食事)を目の当たりにしたというのに!先祖にはマナが与えられた(31節)、と言う彼らに対して、「マナは天からのパンではありません。まことの神様のパンは世にいのちを与えるものだからです!」とイエス様は答えられた(32〜33節)。そこで彼らは「主よ、いつもそのパンを私たちにお与えください」(34節)と、今度は質問ではなく、お願いをした。これは彼らの素直な願いであったのではないだろうか。
そしてイエス様は、究極の答えを出される。「わたしが(その)いのちのパンです」(35節)。
29節の「神のわざ」とは「神が遣わした者を信じること」である。そのために何をすべきなのかという群衆の質問は、良い質問であったかもしれない。しかし神様の目から見れば的外れなものであった。求道中の方が「イエス様を信じるために、私はどうしたらいいのでしょうか」と質問しているのと似ている。良い質問でもあり、的外れでもある。救われるために課せられる課題があるわけではない、強いて言えばイエス様を信じること、それ自体であるからだ。
クリスチャンであっても「神のわざ」のために自分は何をすべきなのだろう、といつの間にか考えてしまっていることはないだろうか。何かうまくいかない、日々の働きや教会奉仕に対して(最善を尽くすことは大切であるが)、自分の力で完成させようとしてしまっていることはないだろうか。信じることによって始まった信仰生活を、「何をすべきか」という自分の力で完結させようとすることはない。やはりイエス様を信じ続けていくことによって、毎日の信仰生活を歩んでいきたい。