1〜15節までの五千人(以上)に食事を与える奇跡は、規模・質量とも最大級の奇跡といえるだろう。当然、神としての業なくしては行われない、まさに奇跡であった。
その後弟子たちだけで舟に乗り、湖の向こう岸へ渡ろうとする。暗くなり、折しも吹き始めた強風で荒れ狂う湖の真ん中で恐怖に怯えていた弟子たちに、イエス様が「湖の上を歩いて」(19節)近づいてこられた。マタイ福音書では弟子たちはそれを幽霊だと思ったと書かれているほどだから、さらに恐怖が増したことであろう。そんな弟子たちを安心させ喜ばせたのは、「わたしだ。恐れることはない」(20節)というイエス様の言葉であった。何人かはプロの漁師であった弟子たちが、自分たちの得意なフィールドであるはずの湖の上で経験した、その並々ならぬ恐怖から抜け出せたのは、ただイエス様の一言だったのだ。「わたしだ。恐れることはない」の声を聞いて、彼らは「ああ、イエス様が来てくれたのだ」と安堵に包まれたのだ。
イエス様が来て嵐が止んだからとか、その後なんとか無事に岸にたどり着いたから、安心して喜んだのではない。
大切なのは、その言葉を聞き、「信じて受け入れよう」と「決心」したときに、彼らは嵐の湖の恐怖から救われたことではないだろうか。
さらに21節、新改訳では「イエスを喜んで迎えた」とあるが、新共同訳では「イエスを舟に迎え入れようとした」とあるように、そのとき実際にイエス様が舟に乗り込んだのかどうかはわからないのだが、各訳とも「ほどなく」(新改訳)、「すると間もなく」(新共同訳)、あるいは「immediately(すぐに!)」(NIV)、舟が目的の地に着いたということだ。ガリラヤ湖の大きさと弟子たちが舟を漕ぎだした距離を考えてみると、どの方向に向かったところで、時間的にすぐに岸辺にたどりついたとは考えにくい。つらいとき、恐怖のときは、時間の経つのがひどく遅く感じてしまうかもしれない。しかしイエス様が共にいてくれた旅路は、少なくとも弟子たちにとって「あっという間」と感じてしまうほどの、喜びと安堵の時間であった。
「わたしだ」というイエス様の言葉は、出エジプト記3章14節で神様がモーセに言われた「わたしは、『わたしはある』という者である」という言葉と同じ意味だそうである。先の五千人に食事を与えた奇跡も然り、イエス・キリストは単なる予言者や人間的な王ではなく(14〜15節)、神ご自身であることが、私たちに示されている。
先の見えない恐れや不安の「嵐」のなかでも、そのイエス様の言葉を聞いて「信じて受け入れよう」と「決心」したときから、喜びと安堵をもって私たちと共に歩んでくださるイエス様がいる。
「わたしだ。恐れることはない」とのイエス様の言葉は、私たちがその神なる存在を信じるとき、大きな平安へと導いてくださるのだ。