聖書通読をしているのは、なぜですか? (39節参照)
みことばをあなたのうちにとどめようとするのは? (38節参照)
それは、永遠のいのちを得る、つまり天国に入るためですよね?
その聖書が、いのちを得るために指南しているのは、「主イエスのもとに来なさい」でした(40節参照)。
ここでいう「聖書」(39節)とは、今の旧約聖書を指します(新約聖書はまだ記されていません)。旧約聖書は「律法と預言者」と呼ばれますが(マタイ7章12節など)、ここでは、律法(モーセ五書)として「モーセ」(45〜47節)の名が、旧約最後の預言者という位置づけでパプテスマの「ヨハネ」(33〜36節)の名が、挙げられていると読むこともできます。主イエスは、いろいろな角度・表現で、ユダヤ人たち(16節)の権威としている旧約聖書に言及し、その旧約聖書がご自身を指し示し、証言している、と語られたのでしょう。
なのに、なぜユダヤ人たちは主イエスのもとに来ようとしなかったのでしょう? 聖書の一番大切なメッセージを受けとめられなかったのでしょう? 彼らは、聖書を探究し、社会の法の根源に置いて、聖書に生きようとしていたはずでしたが・・・。
主イエスはその理由を、「神の愛」がないから(42節)、と言います。 (直訳「神の愛」を「神への愛」と解するか「神からの愛」と解するか見解が分かれますが、真の愛は双方向であることを考えると、どちらにも言及しているのでしょう)
聖書は神様からのラブレターです。「救い主が来るよー!」という約束(旧約)と、「救い主が来たよー!」という喜びの知らせ(新約)のうちに表された、神様からの愛の告白です。神様から離れた人、そのままでは木から離れた枝のように滅びてしまう愛する人を救うため、そしてもう一度愛し合って生きるために、書き送られた手紙です。
どうぞ、書いた人の想いを、見過ごさないでください。