イエス様は、ギアを入れ換えた。
というのも前節までの箇所では、イエス様は主語を「父・子」として、第三者的な言い方をされていたが、この30節からは、「わたし」とういう一人称をもって、ご自身のことについての証しを始められのだ。
聖書を読むだけでは、イエス様はどのような口調でユダヤ人たちに語られていたのかはわからない。
でもちょっと想像していただきたい。前節まで淡々と語っていたイエス様が、「わたし」について突然熱く語り始め、ユダヤ人たちを圧倒していく姿を。
モーセの律法については、ユダヤ人たちは私たちの想像も及ばないほどの知識を持っていた。常に研究していた。
しかし、「神の愛」もなく(42節)「互いの栄誉」しか求めず(44節)、とどのつまり肝心の「モーセの書を(さえも)信じない」(47節)ユダヤ人たちに対して、どうして「わたし」のことを信じることができるだろうかと、イエス様は熱く語られたのだ。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(39節)
永遠のいのちを求めて聖書を読む。決して間違ってはいない。むしろ唯一のものを求めて聖書を研究する姿がそこにはある。
しかし、ユダヤ人たちが決して見いだすことのできなかった答え、それは「わたし」なのだよ、とイエス様は宣言されているのだ。
つまり、「わたし」が「永遠のいのち」だと「聖書が証言している」のだよ、と。
この箇所のユダヤ人たちを反面教師としてみるならば、神からの愛と栄誉を求めるなら、聖書のなかに「永遠のいのち」なる「イエス・キリスト」を必ず見いだす。どんなに聖書を読み続けて研究しても、知識としてそれをとらえていくだけでは、神様の熱い思いからは遠く離れているのであろう。
イエス様を救い主として受け入れている私たちでさえ、謙遜な思いと信じる心を持って、聖書に向かい合っていくべきではないかと身を正す。そこに神様の愛が私たちに向けられていることを期待して、毎日の聖書に向かい合いたい。