ところでベテスダの池のいやしがなされたのは安息日でした。このことは律法を遵守するユダヤ人たちに問題視されました。いやされた当人に事情聴取すると、当人は命じられるまま行動しただけで、命じたのはイエスだと話しました。ユダヤ人たちはイエスを違反者としたのです。
イエスはこうなることを分っていたと思います。そうだとすると、安息日に働かれたことには、深い意図がありそうです。イエスは「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」(17節)と答えました。安息日とは何のためにあるのでしょう?労働を休み肉体的に元気回復する意味も含んでいますが、より大事は、被造物なる人間が創造主である神を覚えて霊的な安息を得ることでしょう。
安息日に、床を取り上げることは当時の規定に反していたかもしれません。しかし、これが人ではなく神によるわざだとすれば、安息日は神のものですから何の問題もないはずです。神を覚える安息日に、神こそが人を顧られたのだとすれば、これほどの祝福はないわけで、驚くしかないと思います。結局、ユダヤ人は、イエスのしるしに神を見ることができなかったということです。可能性すら否定してしまう頑なぶりだったのです。
ユダヤ人たちに、もうひとつ合点のいかないことがありました。イエスが神を父と呼び、ご自分と神とを同等にしたことです。三位一体の教理が確立されていない時代にあって、この無理解はある意味では仕方がないのかもしれません。それぐらいユダヤ人にとって、神は崇高なる存在であった。その点では、私たちの理解はまことに不十分と言えるかもしれません。それはともかく、福音書を普通に読めば、イエスとユダヤ人とどちらが神に近いか、答えは簡単に出ます。一方で、神に選ばれ、みこころに生きようとしながらも、次第に軌道を外してしまうのが人かも知れません。他方、イエスは危険にさらされながらも、また人々の無理解をまざまざと見せられながらも、みこころを真直ぐに歩み通されたのです。
24節以降に、イエスは全人の復活を預言しています。けれども全人は、その目的により、2つに分られるとのこと。一方はいのちを受け、他方はさばきを受けるのです。安息日と知りながらいやしを行える・・・それができる人はこの世にいないでしょう。ただ一人、人となられた神がご自身を力強く現されたのだとすれば、私たちはこのお方のもとで生きる者、将来を心待ちにするものとなるのが幸いではないでしょうか。