第19金曜 ヨハネ4:43-5:14



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 「自分の故郷」(44節)とはエルサレムを指しているのでしょう。イエスはガリラヤのナザレで育ちましたが、メシヤとしてエルサレムに特別な思いを抱いていました。それでもそこでは尊ばれず、かえって、先のサマリヤやガリラヤで熱烈に歓迎されました。

 ここにはカナでの第二のしるしが記されています。かつて水をぶどう酒に変えたしるしは、多くの人に伝えられていたでしょう。住民は歓迎しました。なかには遠くカペナウムから来た男もいました。彼は王室の役人でした。王の支配下にありながら、どうにもできない事情を抱えて、イエスに会いに来たのでした。聞けば息子が病気で死にかかっているとのこと。しかしイエスは「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(48節)と冷たく言われました。けれども彼はあきらめませんでした。イエスがカペナウムにご一緒してくれるよう願い続けました。死にかかった息子、「もう時間がない・・・」彼のなかの時計は誰よりも早く時を刻んでいたでしょう。しかし、それでも執拗にイエスに従おうとした彼とその家族は幸いでした。

 5章は再びエルサレムの場面です。5つの回廊で囲まれたベテスダの池、そこには大勢の病人が伏せっていました。欄外注にもあるように、ベテスダの池の水が動くことに期待を置き、その時を待っていたのです。実際にいやされたこともあったのでしょうか。ただ恩恵に与かれるのはたった1人、それも早い者勝ちです。池の待合人同士はもはや仲間ではなくライバルです。それでも、他に手立てもなく、ぼんやりとそこに佇むしかなかった人がこんなにもいたのです。そのなかに、38年間伏せっていた男がいました。イエスはこの人に焦点を当てます。男は話しかけられて、イエスが自分を池に入れてくれると勘違いし、同情を求めました(7節)。あきらめとも、ひがみともとれる言葉です。また38年経っても治りたい、一途な思いも伝わってきます。5つの回廊をユダヤ教と見立て、そこには救いがないことを暗示しつつ、メシヤの訪問、言葉掛けが、最も底辺にある人にもなされた。御言葉には圧倒的な力があります。人生を180度変えることができるのです。本書第三のしるしは、救いに程遠く見えた人になされました。

 現代の私たちは、イエスを肉眼で見ることはできません。しかし御言葉は2000年前と全く変わることなく、約束を果たし、効力を放ちます。私たちがどんな状況にあろうと、生活を大きく展開する力に満ち満ちているのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条