「刈り入れ」(35節)は穀物の収穫ではありません。人の魂の救いを指しています。ユダヤ人だけでなく、サマリヤ人、全人が対象です。ただここでサマリヤ人が取り上げられたことには意味があります。なぜなら当時ユダヤ人とサマリヤ人は不仲だったからです。どれほどかといえば、ユダヤ人が、ユダヤとガリラヤの地方を行き来する際、サマリヤ地方を通れば最短なのに、わざわざ遠回りするほどでした。「すみませんが通らせてください。ありがとう」と言えばよろしいのに、顔も合わせず、口も利きたくないほどでした。
ところがイエスはサマリヤルートを選んだのです。しかもサマリヤ人女性と対話をします。普通のユダヤ人ならば納得のいかない展開です。イエスの常識は、時に私たちの非常識に当たります。でも、どちらが正しいかは言うまでもないでしょう。イエスはサマリヤ人を(そして全人を)救う青写真を描いていたのです。
ユダヤ人とサマリヤ人は、各々の場所で礼拝していました。礼拝されるお方は唯一です。唯一の神を礼拝しながらも互いにいがみ合うことは異常です。嫌なものを避けることは簡単です。しかしその連続、積み重ねでは、何にも変わらないのです。そのツケが、大きな壁となって両者間に立ちはだかっていました。放ってきた結果、避けてきた結果です。
イエスが35節の御言葉を弟子達に語っている時、遠く向うに、驚くべき光景が映っていたはずです。あの悲しみに暮れた一人の女性が、スカルの大勢を連れて、イエスに近づいてくる。そしてサマリヤの人々が、ユダヤ人である弟子たちを敬遠せず近づいてくる。彼女が礼拝すべき方を知り、永遠の水をいただいたところから始まりました。
「色づいて、刈り入れるばかりになっています」(35節)。この視点は常識を逸しています。私たちには、なかなかそう見えない、それが正直な思いでしょう。イエスがこのように言われたのは、単に信仰という以上のことがあると考えます。ご自分がサマリヤの女と対話をしてみて、彼女に脈、求め、渇きを感じたからではないでしょうか。そして大勢のサマリヤ人が救われました。かつて偶像を拝み、律法を踏みにじり、背信を重ねてきたサマリヤ人、ユダヤ人から卑しく思われていた彼らでさえも救われたのです。
私たちの中に「まだだ」「無理だ」の壁を作ることは簡単です。しかし、それでは何も変りません。イエスの視点、イエスとの対話、常に開かれた心でありたいものです。