イエス一行はユダヤの地にやって来ました。エルサレムでは、イエスの行うしるしを見て多くの人たちが信じました。ニコデモのような求道者も起こされました。他方、パリサイ人をはじめ何の反応も示さない人も大勢いました。
イエス一行がユダヤで伝道する間、バプテスマのヨハネもアイノンという地で精力的に伝道していました。ヨハネのもとにも人がやって来ました。しかし彼は、自分の役割を最初から最後までわきまえていました。
「私はキリストではなく、その前に遣わされた者」(28節)
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(30節)
イエスとヨハネが、同じ場所で協働することはありませんでしたが、両者とも、みこころにある役割を忠実に果たしました。ヨハネの働きの背後で、イエスもまた働かれるとは、何と力強いことでしょう。私たちがみこころのうちに励む働きの背後にも、イエスの働きがあるはずです。
さて、ヨハネの望み通り、イエスの弟子は次第に増え、ついにヨハネよりも抜きん出た頃、それがパリサイ人の耳に届きました。イエスはそれを知ると、静かにユダヤの地を離れました。
ガリラヤへの道中、サマリヤのスカル、井戸の傍で一休みしていると、一人の女性が水を汲みに来ました。ニコデモとの対話も意外でしたが、サマリヤの女性との対話も意外でした。ニコデモは夜でしたが、この女性は真昼(6節の「六時頃」は昼の12時頃)。涼しい朝に、仕事始めに、水を汲むのが普通でしたが、この女性こそ人目を避けていたのです。この女性は深い傷と悲しみを負った女性でした。弟子たちには分らなくてもイエスはご存知でした。
「わたしに水を飲ませてください」(7節)。何の変哲もない申し出ですが、女性は驚きました。ユダヤ人とサマリヤ人とは不仲だったからです。イエスは話し続けます。そして霊的な渇きと、霊的な潤しに気づかせる対話を用意していました。人目を避けて真昼に水を汲みに来なければならない、その異常行動の根本は霊的渇きにある、そのことに読者もまた気づくでしょう。闇には光、渇きには水、両者は同じものを示しています。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(14節)
永遠の命なる水の湧き出し口に女性は立ったのです。そして彼女の人生に湧き出す泉のごとき変化が、ついに起こったのです。