パリサイ人でありサンヘドリン(ユダヤ人議会)のメンバーといえば、誰もが一目を置きました。しかし福音書では、偽善者の象徴のように扱われています。ニコデモは例外ですが、イエスとの対話でトンチンカンな答えをしてしまうあたり、霊的な洞察力の陰りを感じます。それでも、ニコデモのイエス訪問ならびに対話(さらにその後の彼自身の変化)は、やはり大ごとでした。記者ヨハネはこの出来事の解説部(16〜21節)に、聖書の中の聖書と呼ばれる16節を記したほどです。
過越祭の間に、イエスはエルサレムでしるしを行われました。大勢が信じる一方、パリサイ人は静観するだけでした。しかしニコデモだけはイエスのもとを訪ねました。神のもとから来たのでなければ、あのようなしるしはなされないと考えたからです。夜訪ねたことに、人目をはばかったのではという説があります。そうであったかも知れません。また実際イエスは夜でなければゆっくり話すこともできなかったでしょう。しかし記者は、ここに全人に関連する意味を含ませています。夜とは、ニコデモの心を支配する闇の状態を映し出しているのだと。ヨハネは、人々はその闇を愛して、光には来ないとも書きました(19・20節)。多くの闇愛好者のなかで、ニコデモは特例です。光に足を向けたのです。イエスを訪ねる道は、真の光を見出そうとする姿なのです。
この晩のニコデモは、対話だけを見れば、面目丸潰れのような様でした。彼の幼稚な質問と無理解を茶化す人もいるかも知れません。しかし、彼の訪問のおかげで、人が神の国を見る奥義が明かされたのです。「人は、新しく生れなければ、神の国を見ることはできません」(3節)。新しく生れるとは、上からの、霊的、超自然的な誕生のことです。闇と関わらせて言い換えれば、神のもとからおろされた灯火を受け取れ!という命令です。これはわがままな命令ではありません。親が子を守ろうとするごとく、命に関わる決死の命令です。この光がイエスです。16節の通り、人が、御子を信じ受け入れるならば、新しく生れるのです!目には分らなくても、感覚では感じなくても、その人は御子を信じることで、聖霊なる神によって、包まれ、洗われ、新たな、神からの誕生に至るのです。
福音書にはっきり書いてはありませんが、ニコデモは御言葉に従い新生した一人と言えるでしょう。後にはイエスの埋葬を手伝い、復活への橋渡しをするほどの成長を見せ、面目躍如を果たしたのです。