主イエスの行われたしるしを見て入信した者は大勢いましたが(23節)、今日は最初のしるしに注目しましょう。
ガリラヤ地方のカナで、あるカップルの結婚式が行われました。当時の祝宴は数日間に渡るもの。お祝いムード一色のなか、よもやの事態が起こりました。ぶどう酒がなくなったのです。「ぶどう酒=喜び(詩篇104篇15節)」だとすれば、単に飲むのを我慢すれば済む問題ではありません(今日、たいした準備もせず結婚する男女は少なくないでしょう。式場任せのやり方はカップルの準備の機会を奪っているように見受けます)。祝い客の数が予想以上だったか、飲み助揃いだったのか分りませんが、ぶどう酒の終了は2人の準備不足を露呈します。「このカップルは大丈夫なの?」さあ挽回できるのでしょうか?
「ぶどう酒がありません!」 2人に代わり、マリヤが、イエスに訴えました。この訴えは、この若い男女の窮乏だけでなく、全人類の窮乏をも暗示するかのようです。大丈夫と思ったが・・・万事休す。ぶどう酒ならぬ、生きる喜びがない!面白い話題や趣味、お喋り、それこそお酒を飲めば、人は一時的な喜びを得られるかも知れません。しかし所詮間に合せです。やがてまた空になるのです。
イエスはマリヤの訴えを丁寧に受けました。「何の関係があるのでしょう」(4節)。ちょっと冷たく感じますが、真意は実にあったかい。「あなたは『ない』ということに心を置くが、私は『ある』というところに心を置いています。ですから(そっちにいないで)私に来なさい」 救いの招き言葉なのです。裏付けもあります。「わたしの時」(4節)は自らの受難と関連します。ぶどう酒と暗示された血、喜びのために差し替えられる血を流すのは私だという言葉です。あなたに真の喜びを与えるため、この私が酒ぶねを踏んで血を注ぎましょうという覚悟があるのです。
御言葉は時に冷たく、難しく見えることがあります。しかし神の配慮があるのです。私達がそこに距離を置いてしまうのは得策ではありません。あえて関わる。そうする人が歓喜に導かれる例はここにもあります。水汲みのしもべがそうです。彼はイエスのしるしを目撃したのです。彼は、舞台裏の事情と、表舞台にいる人々の驚喜を同時に見たのです。
イエスは、私たちの表舞台なる祝福現場にも居合わせつつ、舞台裏の困ったところにもご一緒し、手を差し伸べます。『・・・ありません』は私たちに付き物、しかし神は私たちを挽回させることができるのです。うっかり者の私たちの切実な訴えに、身を低くして応じてくださるお方なのです。