第19日曜 ヨハネ1:35-51



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 主イエスの最初の弟子『ふたり』(37節)とは、アンデレと本書の記者ヨハネでしょう。2人はバプテスマのヨハネの弟子でした。37節の変り身は、師への裏切りではありません。むしろ師に忠実であった証しです。ヨハネ自身は道備えと心得、イエスをメシヤと示していたからです。

 新たな師に近づく2人に、イエスは振り向いて質問しました。「あなたがたは何を求めているのですか」(38節)。この質問に何と答えるでしょう?(今の日本では物質的なもの、あるいは「別に・・・」という答えが返ってきそうです) 2人は「ラビ。今どこにお泊まりですか」(38節)と返しました。2人の求めは物質的なものではなかったのです。2人は人格的な繋がり、神と人との仲介者メシヤを求め、それを確かめたかったのでしょう。人は神のかたちとして創造された故、所詮物質的なもので満たされることなどありません。

 イエスに「来なさい」(39節)と言われた2人は、その晩、イエスとひざを交えて話したことでしょう。この日、彼らは霊的な捜しものを手に入れたのです。それが次の行動に現れます。アンデレは兄シモンにニュースを伝えました。おそらくヨハネも兄ヤコブに伝えたでしょう。43節ではピリポが弟子入りしますが、この人もナタナエルに伝えています。

 彼らは、イエスに対して、最初は「ラビ」と呼びましたが、「メシヤ」と認めて、家族や友人に紹介しています。イスラエル人にとって、優秀なラビに出会うことは幸いなことだったと思いますが、メシヤはそれ以上、最高点です。
 被造物なる私たちは、関係のなかに生きてこそのものです。友や家族、先生、様々な人との出会いは肝心です。でも最高点ではありません。全ての出会いの上にメシヤとの出会いがあります。人々は、イエスを歴史上の偉人程度の理解から、次第に、メシヤと見直していきます。それは幸いなことです。しかし弟子には新しい課題があります。最高点で満足してしまうならば弛んでしまうのです。そうならないために目標と行動が必要です。アンデレやヨハネ、ピリポのように、伝道、あるいは伝道にまつわる働きがあってこそ幸いなのです。強いられてではなく、メシヤと出会った感動、新鮮味があってこそです。
 救い主イエスは神でありながら、私たちを迎えるために、大工やラビとなりました。私たちが見えるようなところまで、へりくだられたのです。それなのに物質的生活にあっては、この方を見ることができません。「あなたがたは何を求めているのですか?」この質問を導く現場が必要です。それはまずクリスチャンホームであり、教会ではないでしょうか。


【信仰告白】

[2] 使徒信条