ヨハネのもとに、パリサイ人から遣わされた人々がやって来て、ヨハネの身元証明を行ないます。この背景には、28節で「ヨハネはそこでバプテスマを授けていた」ということが、発端となっています。なぜバプテスマを授けただけで、パリサイ人はヨハネのもとに人を遣わしたのでしょうか。それは、ヨハネのもとには、「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々が」バプテスマを受けに集まっていたからです(参照:マタイ3章5〜6節)。パリサイ人は長い歴史の中で自分たちの指導者としての地位を築いてきましたから、突然現れたヨハネに対する警戒と嫉妬心が、パリサイ人のうちにあったのです。
彼は自分自身の使命を「『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です」(23節)と伝えています。彼は救い主の到来を待ち望みつつ、自らの使命を果たしていたのです。
また、ヨハネが授けていたバプテスマは悔い改めのバプテスマであり、もう間もなく来られる救い主をお迎えするために、古い生き方を捨て、罪を悔い改め、新しい心で救い主をお迎えするよう導くことが、ヨハネの使命であり意味でした。
ヨハネの証言は、イエス様との出会いによって明確にされます。ヨハネはイエス様を目の前にし、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(29節)と告白します。このことばのなかにヨハネは、イエス様が神の御子、救い主であり、贖い主であることを明確に関連付けています。
また32〜34節においては、イエス様にバプテスマを授けたときの様子をヨハネは語っています。ヨハネは自分の使命を明確に持っていました(23節)。ですから彼は、自分の使命として、救い主のことを証言しましたし、なによりも待ち望んでいた救い主との出会いに、心が踊り、抑えられない感情が込みあげていたのではないかと思います。
私たちもキリストを宣べ伝えるときには、心から湧き上がる喜びをもって伝えなければ、ことばに詰まり、人の冷たい、あるいは無関心な態度を見て行き詰まり、挫折してしまうでしょう。心から湧き上がる喜びの供給、それは、私たちの救い主であり復活の主であるイエス様と日々お会いすることのなかにあるのです。