今日からヨハネの福音書へ入ります。ヨハネの福音書とは、すべての人に向けて記された書物であり、十二弟子の1人、ヨハネが記したものです。彼の福音書の書き出しは共観(マタイ・マルコ・ルカ)福音書とは異なっています。イエス様の誕生からの書き出しではなく、イエス様は、すでに永遠に存在されていた神の御子、天地万物の創造に関与された造り主、いのちであり光として、描かれています。
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって、万物を保っておられ」(ヘブル1章3節)るイエス様の御前でひざまずくとき、私たちのうちで、イエス様がいのちとなり、光となってくださるのです。
6節で登場するヨハネは、この書名のヨハネとは別人です。彼の生い立ちについては、ルカ1章5〜25・56〜80節に記されています。このヨハネは通称「バプテスマのヨハネ」と呼ばれる人であり、彼の役割が7〜8節で繰り返し「光についてあかしするため」であったことが記されています。
私たちもヨハネ同様、光そのものではありませんが、光に照らされたものとして、光を証しする役割が与えられています。光であるお方を仰ぎつつ、光を証しすることが、主によって生かされ、光に照らされているものの喜びなのです。
9節では、キリストの到来が告知されています。しかし、10〜11節においては、キリストの到来を無視し、あるいは拒絶するこの世の姿が記されています。これはイザヤ53章の受難のキリストを思わせるものです。しかし、ここで旧新両約聖書で救い主の貧しさと到来が描かれているというのは、実に私たち罪ある人間のためであります。暗闇の罪の世界にとどまり、自力では抜け出せずにいる私たちのもとに、キリストは、天の栄光を捨ててまで、私たちの暗闇の中に来てくださり、ご自身も貧しさを味わってくださったのです。
また12節では、私たちクリスチャンが何者であるか、という問いに明確な答えが記されています。「私たちは神の子とされている」というのが、私たちのアイデンティティであります。天に私たちの名が書き記されていることを喜びましょう!
キリストが恵みとまことに満ちているとは、どういうことでしょうか。それはキリストの神のご性質をあらわすものであり、またキリストが語られ、行なわれるすべてが、神の御心をあらわし、神ご自身をあらわしておられるということです。目に見えないお方が、人となってこの地上に来られ、ご自身をあらわしてくださったことは、「満ち満ちた豊かさ」(16節)の最高の顕現であり、目に見えないものをなかなか信じることができない、弱い人間に対する神の深いご配慮なのです。