「ちょうどこの日」(13節)とは、イエス様が死人の中から復活され、驚きと恐れにエルサレム中が包まれた日でした。2人の弟子はイエス様とはわからずに、十字架の死と復活について議論しながら、数時間を共に過ごします。彼らがイエス様と共にいたのだと気づいたのは、宿泊場所でイエス様がパンを祝福され、裂かれた時でした。
私たちが臨在の主を疑い、気づかないのは、私たちの関心事が、主ご自身とそのみことばの約束以外に向けられているからです。私たちがすべてのことから目を離し、主を仰ぐ時にこそ、私たちの心のうちは燃やされ、希望をもって歩むことができるのです。
イエス様に出会った人々の反応とは、驚きと恐れにおいては共通していますが、その検証方法は様々です。この箇所では、イエス様が弟子たちの間に現れますが、イエス様と出会った驚きと疑いと喜びが入り混じるなか、ご自身が十字架上で負わされた手足の釘の跡をお見せになります。それでも信じない弟子たちに対して、イエス様は焼いた魚を一切れ召し上がりました。これらはイエス様のみからだが、霊ではなく、その肉体をもって復活されたことを意味しています。
イエス様は復活された後、多くの人に出会われます。その最後に弟子たちに対して、十字架の死と復活を、そして罪の赦しを得させる悔い改めの福音を宣べ伝えることを託されます。このことにあたり、イエス様は弟子たちの力と可能性にかけたのではなく、「わたしの父の約束してくださったもの(聖霊)」(49節)によるものであることを教えられました。今日の私たちにおいても宣教と教会形成の原動力は聖霊です。
イエス様が語られた後、天に昇られますが、その後弟子たちは、復活の主と出会ったことの喜びをもって、エルサレムに戻ります。彼らの心にはしっかりと主のみことばがとどまっていました。なぜでしょうか。それは彼らが主のみことばとおりに都に、しかも復活騒動のなかにあるエルサレムに恐れずに戻ったからです。この大きな喜びは、後に続く使徒の働き、教会の誕生、福音宣教の拡大の原動力となり、引き継がれていきます。