イエス様が十字架上で息を引き取られる直前に、全地は暗闇に覆われ、あたかもこの地上が罪という闇に覆われているかを思わせます。この時「神殿の幕は真二つに裂けた」(45節)と記されているのは、イエス様が十字架にかかられたことによって、贖いが完成されたことを意味します。
人は祭司を介していけにえを携えて神の御前に出ましたが、イエス様が祭司となり、またいけにえとなってくださったのです。ですから私たちはイエス様を信じる信仰によって、罪赦され、義と認められ、神の御前に大胆に出られるようになったのです。
そして、このイエス様の死に様を目の当たりにし、百人隊長は神を崇め、群衆も心を痛め、悲しみながら帰途につきます。
イエス様が息を引き取られた後、議員であったアリマタヤのヨセフという人が、イエス様の埋葬を申し出ます。彼は議会の決議に反対し、イエス様を愛している人でした。聖書はこのことを「りっぱな、正しい人」(50節)と評価しています。日が暮れかかり、日没になると安息日が始まるので、埋葬作業は律法違反となり、この時には、慌しく埋葬作業が進められました。
神はヨセフに埋葬作業を委ねられるという計画があったように、私たちもクリスチャンとしてこの世の流れに同意できないこともありますが、私たちの意に反することがあっても神のご支配があること、また私たちも必ず神の御心を行なう時が備えられているのです。
安息日が明けた早朝、すなわち日曜日の夜が明けるとともに、希望の朝がやってきました。イエス様が死人の中から復活されたのです。イエス様の埋葬をやり直そうと墓を訪れた女性たちは、イエス様の体がないことで途方に暮れますが、御使いが復活の事実を告げ知らせます。この知らせを耳にした女性たちは、「イエスのみことばを思い出した」(24章8節)のです。彼女たちは、この事実を使徒たちに伝えに行きます。しかし、使徒たちには信じられるものではありませんでした。
ここに、語られたみことばが心に残り、それを思い出した人の信仰と、みことばが心にとどまらず不信仰に陥ったままの人の姿が明らかにされています。