いよいよイエス様の十字架刑が執行されようとしています。伝統的に死刑囚は処刑場まで、十字架を背負うことになっていたようですが、徹夜での裁判、執拗な暴行のゆえに、イエス様の体力は限界に達していました。そこでクレネ人シモンがイエス様の代役者として選ばれます。「クレネ人をつかまえ」(26節)と記されているところに、シモンに背負わされた十字架が強いられたものであったことがわかります。しかしこれがシモンにとっては恵みの第一歩となったことが使徒13章1節に記されています。
十字架を背負うこと、これはイエス様が私たちに語られたことであり、またキリスト者にとっては必ず恵みになることを思わされます。
いよいよこの箇所において、イエス様は十字架にかけられます。イエス様の十字架の周りには、十字架をながめる人、あざ笑う人、あざける人々がいました。十字架の周りにいた人々というのは、ルカの記述だけでは、こういった人々だけでした。この十字架であざ笑う人々の姿こそ、自分の罪を認めず、わがままに生きる私たちの姿でもあります。そのような人々に対してイエス様は、「父よ。彼らをお赦しください」(34節)と祈られました。この約2000年前の祈りが、あなたの耳に聞こえてきますか。
私たちが十字架を前に立つ時に、本来ならイエス様ではなく、私がいるはずだったことを思い出し、イエス様が身代わりとなってくださったことを覚えるのが信仰者の原点です。
イエス様の十字架の両脇には、2人の強盗が同じ刑に処せられていました。2人は十字架上でイエス様に助けを求めました。しかしこの2人が求めた違いとは、1人は自己中心的な思いから助けを求めています(39節)。そしてもう1人は、自分の罪を認め、イエス様に罪がないことを告白していることです(41〜42節)。主は自分の罪を認めた人をお救いになり、パラダイスでの再会を約束されました。
散々悪さをして、死ぬ間際で赦しを請う人など都合が良すぎる、イエス様もお人よしだと考える人もいるでしょう。しかし、そのような人をもイエス様はお救いになられるのです。