最後の晩餐を終えられたイエス様は「いつものように」(39節)「いつもの場所で」(40節)祈りをささげられました。間もなく十字架といばらの道を歩もうとされたイエス様の行動は、いつものように、いつもの場所で、祈ることでした。
「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(42節)とのイエス様の祈りと、ご自分を捨て、十字架の死にまで従われたイエス様の御姿は、贖われた私たちが日々の生活のなかで祈り、模範として、選択すべきことです。
イエス様の十字架といばらの道の始まりは、3年間寝食をともにした、弟子のイスカリオテ・ユダの裏切りからです。イエス様はこの裏切りにも、また「暗闇の力」(53節)に対しても、逆らわれませんでした。これは、ただの成り行き任せや、イエス様の力不足ではなく、イエス様は罪の贖いというご自分の使命と、十字架の道を歩むという神のみこころを優先されたゆえです。
私たちもキリストとともに、十字架の道を歩むことを選択することを、祈りのうちに備えなければなりません。
イエス様が逮捕されて、大祭司の家に連れて行かれたとき、弟子のペテロはイエス様の成り行きを見るために、イエス様の後を追います。イエス様が裁判にかけられている間、彼は3度、イエス様との関係を否定します。この彼を、イエス様は「ペテロを見つめられ」(61節)ました。
人は誰もがこのペテロのような弱さを持っています。私たちが弱さのなかにいたり、罪を犯した後、神は裁きの準備をされているのではと、怯えていないでしょうか。否、主は私たちを助けたいと思っておられるのです。主がペテロをご覧になったように、私たちにも主のまなざしが向けられているのです。
この裁判では、イエス様に罪があるかどうかを審議するものではありませんでした。「イエスをからかい、むちでたた」(63節)き、「目隠しして、『言い当ててみろ。今たたいたのはだれか』」(64節)と、あざけりと暴力に満ちたものでした。66節以降の裁判では、すでに死刑が求刑されていました。人の心とは、攻撃的になると、真実を見ることができません。いかなる事実も攻撃対象となります。裁判に関わった人々も、イエス様の証言を受け入れることができませんでした。
ここに見る人の罪深さは、私たちのうちにも見られるもので、このためにイエス様は十字架の道を歩まれたのです。