最初の役人とイエスの問答は、一見すると、金持ちが神の国に入ることはできないとか、財産を捨てなければ救われないという意味にとってしまいそうである。しかしそうではない。注意深く役人の言動を探る時にイエスが彼のなかに何を見ていたのかが見えてくる。彼の目的は神に従うこと、神の御前に正しく生きることではなく、永遠の命であった。彼はその手立てを知っているであろうイエスに対し、当時でも普通は使われない「尊い」というおべっかを使う。彼のなかに利己心が見え隠れする。また彼はイエスが挙げた戒めについても自分は守っていると言い切る。彼は自分は正しい人だと信じて疑わない。
これを聞いてイエスは彼の欠けている点を指摘する。イエスは全ての財産を捨て、貧しい人に施さなければ救われないという意味で言われたのか。確かにこの世の富は、人の救いに大きな障害となる。しかしここで考えるべきは、自分は律法を守っていると信じて疑わないこの役人が「隣人をあなた自身のように愛せよ」という律法の根幹を守っていない点である。以前にも書いたが、この世の富は蓄え、自分のために用いるものではなく、神の御心のために用いられるべき物なのである。
25節、イエスは金持ちが神の国に入る困難を告げる。それに対して人々は「それでは、だれが救われることができるでしょう」と問いかける。彼らは金持ちが神の国に入るのがそれほど困難であるならば、一般の民衆はなおさら入れないと考えていたのであろうか。恐らくそれよりも、まだ何か人の側にある善行や努力で神の国に入れると考えていたのであろう。イエスは救いの根本的な理解を明らかにする。「人にはできないことが、神にはできるのです」
28節、ペテロは自分たちは全て捨てて従って来たと主張する。これに対し、イエスはこの世でも、神の国においても報いがあることを保証する。見逃してはならないのは29節に「神の国のために」とイエスが言及している点である。
31〜33節、イエスがこれから自分が十字架にかけられ、復活することを明言する。しかし弟子たちは未だ目の前にある現実と、自分たちがイエスの上に勝手に抱いている願望とのずれを受け入れようとはしなかった。彼らは相変わらず、イエスが革命を起こし、ローマの圧政からイスラエルを救い、神の国を建国するという類の期待を抱いていたのである。イエスの言葉を無視し、聖書の預言を理解しない彼らは、まさに盲目であったのである。
35〜43節にかけて盲人の癒しが語られる。一読すればイエスが盲人を癒された奇蹟の記事である。この記事に、この福音書の著書であるルカが込めた意図はなんであるのか。金持ちの役人はパリサイ人、律法学者のように自己義認し、自分の本当の姿が見えていなかった。霊的な盲目であったのだ。弟子たちもまたイエスの行く道が見えていなかった。「見えるようになる」というのはルカが好んで使う神学的主題である。この盲人の記事は明らかにこの神学的主題を意識している。
38節でイエスに希望をかけた盲人は叫びだす。人々がたしなめたがその叫び声はますます大きくなった。39節の「叫ぶ」という言葉は、38節の「叫ぶ」とは異なる単語が使われている。38節の「叫ぶ」はいわば普通の大声で呼ばわっているという意味である。しかし39節の「叫ぶ」はカラスの叫び声から作られた擬声語で、本能的な叫び、意味のわからない動物的な叫びを意味する。イエスは彼を呼び、彼に尋ねる「わたしに何をしてほしいのか」「主よ。目が見えるようになることです」
盲人の目は開かれ、彼はイエスについて行った。この盲人のしたことはなんであろう。彼は必死にイエスを求めたのである。この悲痛とも言える叫び声は彼の信仰の叫び声であった。そして彼は見えるようになったのである。この魂から搾り出されるような真剣な叫びは、あの金持ちの役人にも、十二弟子たちにも見られないものである。