祈りとは信仰の行為である。神を信じない者にとって、祈りとは全く無意味なものである。1節にある「いつでも祈るべきであり・・・」というのは当時の「絶えざる祈りで神を煩わせるな」というイスラエル人の常識からは外れている画期的な勧めである。
話に出てくる「人を人とも思わない裁判官」はイスラエル人の裁判官ではない。イスラエル人同志の揉め事は大抵、長老のところに持ち込まれた。もし調停がなされる場合でも、普通3人裁判官が立てられることになっていた。当時の裁判では、賄賂などによって正しい裁きが曲げられることがしばしばあったようだ。この裁判官もそうした不正な裁判官の1人であろう。
神は、このような酷い裁判官のように、人々が何度も訴えるまで、裁きをつけてくださらない方ではない。むしろ神を愛するものに、いつも耳を傾けておられる方である。
8節、イエスが「地上に見られるだろうか」と懸念しておられるのは、そうした神の公正な裁きを信じる信仰、また失望せずに絶えず祈り続ける信仰のことである。
9節からは自己義認をしていた人々に対してイエスが話された例えである。ここに出てくるパリサイ人は、他人を裁き、行いによって自分は義人であると神の前に自己義認をしている。彼には自分の本当の姿が見えていないのである。一方、パリサイ人の祈りに出てくる、ゆする者、不正なものの代表である収税人は自分の本当の姿を見つめ、神の前にあわれみを請う。
14節、結果は逆転する。何が2人を分けたのか。それは自分を正しいとする高慢な心と、神のあわれみを求めるへりくだった心である。
15節からはイエスと幼子についての記事である。17節の「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」とは子どもじみた態度を取れということではない。そうではなく子どものように平然と恵みを受け取れる素直な態度を持つということである。