第16水曜 ルカ16:19-17:10



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 16章19〜31節は、前回の続きでもあり、つながりは明白である。この世の富を、自分のために用いる不正な管理者は、今日の箇所に出てくる金持ちに重なり、富を義人の象徴だと捉えていた律法学者の眼前で語られたのである。
 この例えの要は、富む者と、富まない者の立場が、死後に逆転する点にある。そこにはルカ12章21節にある「神の前に富まない者」の姿がある。
19節、金持ちの着ていた「紫の衣」は高価な上着、「細布」はエジプト亜麻の下着であり、いずれも贅沢品。彼は毎日遊び暮らしていたとある。一方、その金持ちの家の門前にいた貧乏人は乞食であり、何らかの病気を患い、衰弱していた様子が窺える。
 21節に「犬もやってきては、彼のおできをなめていた」とあるが、犬は当時、けがれたものとされていたので普通は追い払う。が、彼にはその気力さえなかったようである。その貧乏人の名は、ラザロであるが、この名の意味は「神は我が助け」である。やがて両者は死に、金持ちはハデスへ、ラザロは名前が表すとおり神の国へ携え挙げられる。
 この背景には前回の15節がある。人間の間で崇められる者とは誰か。それは金持ち、有名人、権力者などこの世で成功した者たちである。しかし彼らが、その成功を神から与えられた恵みとは捉えず、神の御心にかなう富の運用をしないのであれば、神の前では憎まれ、嫌われるのである。金持ちはラザロに酷なことをしたわけではない。門前から追い払ったり、物乞いを拒否したり、暴力を振るったりしたわけではない。この金持ちの罪は、彼の眼前で飢え、苦しんでいたラザロに、何もしなかったことである。彼は苦しむ隣人に無関心であり、他人に対する想像力が欠けていた。それと同時に任された富を正しく用いることをしなかったのである。
 27〜31節の問答は、一見無慈悲に思えるが、人間の本質を考えるならば至極当然といわざるを得ない。御言葉に耳をかさず、目の前の貧困や苦しみに対して何も感じない人は、たとえ誰かが超常的なしるしをもって警告に来たところで耳を貸すはずがない。今日の日本を思う。

 17章1〜10節は打って変わって弟子に向けた教訓である。いわばクリスチャンになった人への教訓と言えよう。
 1節、「つまずき」とは「罪の誘惑」とも訳される。つまり信仰者を悪へと誘惑する者は忌まわしい者であり、2節の恐ろしい刑罰よりも悲惨な結果が待っているということである。
 3節・4節は訓戒と赦しの教えである。4節「7度」は文字通り7回ということではなく、際限なくということである。このような基準の高い教えは実行不可能であることは、私たち自身がよく知っている。それは神への信仰なしには出来ないことである。
 5節、使徒(弟子)たちは主(イエス)に「私たちの信仰を増してください」と懇願する。彼らは自分の信仰が薄いためにそうした教えを実行することが出来ないと考えたからである。しかしこれに対しイエスは信仰を「からし種」という米粒よりもさらに小さい種に例え、信仰の薄い・篤いではなく、本質に眼を向けるように説いている。本当に生きた信仰に不可能はないのである。
 7〜10節、神への奉仕とは当然の義務であることを教える。私たちクリスチャンのうちには「奉仕」をするうちに、段々と「してやっているんだ」という傲慢な心が芽生える。しかしそれは神の前に負っていた罪の負債と、その赦しの恵みを忘れた理不尽な考えである。私たちがいかに徳の高いことをしたとしても、その行いによって私たちが義人になることはないのである。


【信仰告白】

[2] 使徒信条