一見するとイエスは、この不正な管理人を是認しているかのように取れる。しかしそうではない。イエスは不正な管理人、つまり「この世の子ら」(ノンクリスチャン)が、この世での生き方、またこの世の将来に対して、「光の子ら」(クリスチャン)よりもはるかに熱心であり、徹底しているといっているのだ。その裏には、光の子らはこの世での生き方ではなく、自分の魂について、永遠の命についてなおさら熱心であれ、という思いがある。
9節には「光の子ら」つまり神の前に正しい管理人とは、どうあるべきかが書かれている。まず注意したいのは「不正な富」という言葉。ここで使われている「不正な」という言葉は「この世の」とほぼ同義の言葉である。よって「不正な富」とは、すなわち「この世の富」のことであるのだ。光の子らは「この世の富」、つまりこの世で自分に与えられているものを用いて、友をつくりなさい。その目的は、「富がなくなったとき」、つまり人が死ぬ時、彼らがあなたを「永遠の住まい」に迎える、つまり神の国に迎えるといっているのだ。
ここで問題になってくるのは「友を作る」とはどう解釈するべきかという問題である。これは単純に人に親切にしたりおごったりすることによって、友人をたくさん作れということではない。また、その対象が貧しい人か、親族であるのか、クリスチャンか、はたまた天使、あるいは神であるのかわからない。見方を変えてみる必要がある。9節後半に、「彼らがあなたがたを、永遠の住まいに迎える」とある。そのまま読むならば、「この世の富」で作った友があなたを神の国に迎えると解してしまいそうであるが、そうではない。この「彼ら」は神の名の直接的な表現を避けるユダヤの表現である。そしてこの「迎える」という動詞は三人称複数形という形で、それは神の摂理を表すときに用いられる。すなわち、「友」を作ることによって、その「友」が光の子らを永遠の住まいに迎えるのではなく、その行いを喜ばれた神ご自身が迎えてくださるのである。よって「友」を限定された対象として捉えるのではなく、「友をつくる」という表現のなかで「神の御心にかなった使い方をする」と受け取るほうがいいであろう。
少し整理してみる。正しい管理人は、不正な管理人とは違い、この世の富を神の国に入るために用いるべきだ。それはすなわち、この世の富を神の御心にかなったことに用いる、ということである。そうすれば、神は永遠の住まいに迎えてくださる。続く10〜12節は同じテーマが繰り返される。10節、「忠実」であるというのは人格的な問題であり、それにはことの大小はない。11節、「不正(この世)の富」に忠実でなければ、「まことの富(天の富)」は任せられない。12節、「他人のもの」とは死ねば何も持って行くことが出来ない「この世の富」を表し、「あなた方のもの」とはすなわち「天のもの」を表す。
後半14節からは、イエスとパリサイ人たちの問答が挙げられている。16節、この「ヨハネまで」とはバプテストのヨハネのことであり、イエス以前を表す。そして「だれもかれも・・・はいろうとしています」とは多くの収税人、罪人たちが殺到していることを指している。しかしそれは律法が廃棄され、誰も彼もが入れるようになったということではないことを17節は告げる。そしてその律法の一例として離婚に関する律法を挙げられた。それは当時、結婚の絆は完全に形骸化し、女はモノとして扱われ、離婚は男性の権利と考えられ、神の意図されたものから外れていたからである。イエスは神の国が到来した今も、この律法が生きていることを示す。それは暗にそれらを形骸化させている指導者たちに対する警告である。