今日の箇所は多くの方に親しまれている箇所のひとつである。収税人、罪人たちは当時、パリサイ人、律法学者から嫌われ、汚れたものとして扱われ、交流がなかった。自分たちを義人とし、神の国の民だと信じるパリサイ人、律法学者たちにとって彼らは滅ぶべき罪人であったのだ。その収税人、罪人たちとイエス・キリストの間に交流があったのだから、パリサイ人、律法学者たちの驚きと蔑みは容易に想像できるところである。「そこでイエスは彼らにこのようなたとえ話をされた・・・」というのが今日の本題の始まりである。
旧約聖書の時代から、神と神の民の関係は、羊と羊飼いに例えられてきた。詩篇23篇、イザヤ53章6節などが代表的であろう。そして良き羊飼いのモチーフは、イスラエル人が待望していた、救世主の象徴として用いられた。エゼキエル34章などがそれである。羊のモチーフは当時のイスラエル人にとってありふれた自然なものであった。
この例話、なぜ99匹もまだ残っているのに、自分の命を賭してまで1匹を探すのか、なんだか腑に落ちないものを感じる。近年、イラクで人質になった日本人に対する国内の世論に「自己責任論」なるものが持ち上がる日本人にとって、これはまことに不可思議この上ない。「自分で迷い出たんなら、野たれ死んでもしょうがない。なんでそんな勝手な奴のために他のものが犠牲を払わなきゃならないのか・・・」なんて声が聞こえてきそうである。そしてこの声こそが当時のパリサイ人、律法学者の声なのである。1匹を見つけたときの羊飼いとその友人たちの喜びの場に彼らの姿はない。自らを神の民と称していた彼らの実態と、迷える羊を命を賭して探し求める神の計り知れない愛が対照的である。
銀貨1枚といえば当時の貧しい労働者の1日分の賃金である。その銀貨を1枚無くしたとて、どうと言うこともないか・・・という視点では理解できない。先にも書いたがこの例話もまた「父なる神の愛」の大きさを表すものである。この例えのなかの女は恐らく貧しい。彼女が一家の生活費のために持っているのは、たった10日分の日雇い労働者の賃金である。よって、もしその1枚を失くしたならば、とうぜん家中を探し回るのである。
ここで聖書が注目させたいのはその女の境遇ではなく、他人には大げさにさえ思えるほどの女の熱心と喜びに例えられるほどに、失われたものを探し求めておられる神の御姿である。
御存知、この例話は「放蕩息子の例え」として知られる有名な物語である。しかし内容からするとその題名は必ずしもふさわしいとは言えない。一読するとあたかも弟息子が話の中心に見えるがそうではない。この例話の中心は2人の息子を持つ父の計り知れない愛である。
それほどわかりにくい例話ではないのでポイントだけに抑えたい。
12節、当時、父親の存命中に財産を分与してやることはないことではなかったが、それはあくまで父親の都合上であろう。自分から財産をよこせという自己中心な弟息子の心に冷酷さを見る。ここですでに父の偉大な愛が示され、父親は彼の要求どおりに分けてやるのである。
15節、彼は豚の世話をするほどに堕落するが、これは単に汚い仕事にしかありつけないほどに落ちぶれた、ということではない。イスラエルの律法に「豚を飼う者は呪われる」というものがある。当時、豚は汚れた動物としてイスラエル人に忌み嫌われていたのである。その豚の世話をしていた彼には、その豚の餌さえも与えられなかった。まさに落ちるところまで落ちたのである。
ここで彼は悔い改め、父の元へと帰っていくのである。その彼を迎えた父の歓迎はまさに彼自身とは不釣合いなほどの歓迎であった。汚い彼に口付けし、着物(栄誉を表す)を着せ、指輪(相続者としての権威を表す)をはめ、靴(奴隷ではないことを表す)を履かせ、祝宴を催したのである。
一方、兄は正しかったのか。否。彼もまた「失われた息子」の一人であった。彼は弟が帰ってきたことを喜ぶどころか、怒って家に入ろうともしない。見かねた父親がなだめようと出くると、自分が正しい根拠を並べ立てた。また彼の言葉の裏には、心の奥底では弟のしたことを羨む兄の姿が浮かぶ。
30節、父親にむかって、自分の弟を「あなたの息子」と呼ぶほどに彼の心は冷え切っていた。ここに自分を義人としながらも、その実「失われた息子」である、パリサイ人、律法学者の姿が重なる。しかし、ここでもまた父親はその計り知れない愛をこの兄息子に注ぐのである。物語にはその後、この兄息子がどのようにその愛に答えたのか、書かれていない。
この3つの例話のテーマは「父なる神の計り知れない愛」である。イエスが示したこれらの神像はイスラエル人にとって画期的な神像であった。彼らにとっての一般的な神のイメージとは畏怖の対象であった。イエスは「神は愛なり」と示すと同時に、自ら失われたものを探し救うためにこの世の生涯を歩まれたのである。