イエスは今日の箇所、12〜14節において、パリサイ人、律法学者たちの自己中心性と、他の階層の者たちに対して持っていた、無関心、差別意識を指摘された。お返しが出来る人々、あるいは招いて当たり前の人々を招くのではなく、お返しの出来ない人々、招かれるはずのない人々を招きなさいと言われたのは、パリサイ人、律法学者たちのそうした背景があるからである。彼らは自分たちの利益だけを求め、同じイスラエル人のなかの弱い立場にいる人々に対し、偽善こそすれ、本当の愛は示さなかった。それにもかかわらず、彼らは我こそは神の国の民だと信じていたのである。パリサイ人、律法学者の自己義認は15節によく現れている。この反応は、前のイエスの教えに対する答えとしては、ちぐはぐな感じがする。しかし16節以降のイエスの寓話を考えれば、これは霊的に盲目な彼らの姿を、いみじくも言い表す一言であろう。客の一人が「何と幸いなことでしょう」と言ったのは、彼が自分を神の国で食事をする者(義人の復活のときお返しを受ける者)とみなしていたからである。
これを聞いてイエスは16節から「盛大な宴会の例え」を話される。古代オリエントにおいて正式な招待は二度に分けてなされた。一度目の招待を受けておきながら、二度目の招待を断ることは無礼極まりないことであった。例えのなかで、招待客は理由にならないような理由で二度目の招きを断る。彼らは招待のことよりも、自分自身の興味に心血を注いでいる。
21節、怒った主人は他の人々を招いて宴会を満席にする。24節に鍵がある。冒頭「言っておくが・・・」は直訳すると「あなたがたに言う」である。つまり24節は、例えのなかの主人の言葉ではなく、例えを聞いていたパリサイ人、律法学者たちに向けてイエスが言われた一言と考えられる。24節におけるイエスの言い変えを見逃してはならない。「私の食事」とは15節における、「神の国の食事」であり、暗に自分が神の国の主人であることを示している。イスラエルの指導的立場にあり、神の国の民と自負していたパリサイ人、律法学者たちは招かれた客であった。にもかかわらず、主人であるイエスの二度目の招きに答えようとしなかった。結果、彼らがイエスの食卓(神の国の食事)にあずかることはないのである。
25節から場面が変わる。今度はイエスと共に、イエスの弟子として歩いていた群衆に対して語られた。前段との関係はこうである。「イエスの食事」に招かれていたはずの人々が、締め出される結果になり、他の人々にもその門が開かれた。しかし、イエスの弟子になるということは簡単なことではない。ここからは「イエスの食事」にあずかりたい者に対する言葉なのである。一見すると、なにやら尋常ではない。「憎む」とは聖書らしからぬ言葉に思える。この場合の「憎む」とは相対的な関係を意味する言葉であり、なんの理由もなく父母、兄弟、自分を憎めといっているのではない。イエスに対する愛が最優先であるならば、必然的に他への愛は最優先ではなくなる。これが「憎む」という言葉に訳される原語の意味である。
28節から33節の例話は、弟子になるためにはまずそのための計算、予定、そしてやり遂げる覚悟が必要であるという意味である。
最後に弟子を「塩」に例える。塩には3つの効用がある。
1) 防腐剤として。弟子たちはこの世の腐敗を防ぐ防腐剤である。
2) 調味料として。弟子たちはこの世に新しい風を吹かせるための調味料である。
3) 肥料として。弟子たちは良いものを育てる肥料である。
このように述べると同時に、もし塩が塩気をなくせば何の役にも立たず、外に捨てられるという厳しい警告もなされている。