第15金曜 ルカ13:1-21



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 「エルサレム巡礼の祭りに乗じて不穏な行動に走り、総督ピラトの怒りを買って虐殺されたガリラヤ人がいましたよ!」
 そうイエス様に報告する人たちがいました。彼らは、これを神の裁きだと考えました。彼らは自分たちよりもはるかに罪深い。だから、このような目に遭ったのだと。
 イエス様は、この報告者たちの誤りを指摘するため、昨今起こった別の事件を取り上げます。シロアムの塔が崩壊した事件です。「その時、犠牲になった18人は、誰よりも罪深かったから、押しつぶされてしまったのではない。あなた方も含めて、すべての人が神様の前では罪深いのだ。だから悔い改めなければ、自分は義人だと傲慢になっているあなた方は、必ず滅ぼされますよ!」 そうイエス様は、警告を発しておられるのではないでしょうか?

 そして、一つのたとえ話を語られます。ぶどう園に植えられたいちじくの木の話です。ぶどう園にいちじくの木が植えられることは、当時、珍しいことではありませんでした。この園の所有者である主人は、いちじくの収穫の時期にやって来ますが、実を得られないまま3年経ったので、この木を切り倒そうと考えます。聖書では「3」は完全数とされていますから、3年待ったというのは、充分な時を経たことを意味しています。
 いちじくの木は根を張るので、主人は、園の番人に「これを切り倒してしまいなさい」と迫ります。イスラエルには、耕地となる土地は限られていましたので、実も付けないいちじくを放置しておくことは無駄なことだったからです。

 私たちは、まさにこのいちじくの木のようです。悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結びたい。御霊に導かれて、御霊の実を結ぶ者へと変えられていきたい。そう願いつつも、依然として古い自分が存在していること、つまり自分自身が相変わらず罪の支配下に置かれていることに気づかされるのではないでしょうか?

 ところが園の番人は、もう1年の猶予を乞い、実がなるように努力してみますからと答えています。神様は、「切り倒してしまいなさい」と命じる厳しさを持っています。罪を罪として処罰されるお方です。私たち人間に、悔い改めを迫り、終わりの日に審判があることをお告げになっています。
 しかし同時に、神様は限りない愛のゆえに、赦しを持っていてくださるお方でもあります。忍耐し続けてくださる神様なのです。キリストは、「どうか、ことし1年そのままにしてやってください」と、私たち(=実を実らせない木)を愛し、憐れみ、忍耐を持って神様にとりなしてくださっています。

このキリストにどう応えて歩んでいくのか? 私たちは問われているのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条