第15木曜 ルカ12:41-59



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

【41〜48節】 忠実に奉仕して主を待つこと

 この3つ目のたとえも、昨日の2つのたとえと同様に、主の再臨における救いと滅びの完成を語っています。特にこの3つ目のたとえは、ペテロの問いに対しての答えですので、主の弟子が主をどのように待つべきかが明らかにされています。
 それは弟子としての生き方です。絶えず主にのみ仕え、主のために奉仕をして、主を待つことです。このたとえの悪いしもべは、主人が帰って来ることを頭では知っていましたが、主人に対する恐れが全くありませんでしたので、「主人の帰りはまだだ」とたかをくくり、その結果、任された下男・下女に対して愛の無い行為をします。また自分に対しては甘く、自制を欠く不道徳な行為をしています。私たちも、主の再臨を待つ思いが希薄になったり、主への恐れがなくなる時に、この悪いしもべのような生き方をしてしまうのではないでしょうか?

【49〜59節】 地に火を投げ込むために来た

 この箇所は2つの内容に分けられます。前半(49〜53節)には弟子たちに対する言葉、後半(54〜59節)には群集を含めた人間全体に向けての教えです。
 前半の弟子たちに対する教えには、厳しい言葉が語られています。火は聖書では裁きや訓練を表す象徴として用いられてきました。イエス様は、この神の裁きを私たちに代わって負ってくださいました。このメッセージ(=福音)を弟子たちは語り続けていかなければなりません。もちろんキリスト者は、自らの家族が主にあって祝され、愛と信頼でつながれることを祈り求めます。しかし、主の救いを宣べ伝えることにおいては、たとえ家族が分裂してしまうことがあったとしても、そのメッセージを歪めてはいけないし、この福音から足を踏み外してはいけないのです。
 最後に裁判のたとえが語られています。ある人が裁判にかけられて、役人のところに連れて行かれます。彼を待ち受けているのは有罪判決です。ひとたび判決が下されたら、もう手遅れになります。
 イエス様のメッセージは「罪人を何とかして救いたい」との願いです。しかし、それを聞いていたにもかかわらず、その人が無視したとしたら、主の救いはその人には及びません。神様が与えてくださる救いを今、感謝して受け取っていきましょう。


【信仰告白】

[2] 使徒信条