子どもが、愛情あふれる裕福な親のもとにあって、「ぼくは今日、食事にありつけるだろうか?」などと心配しないように、神の子たちも、すべてを神様に任せて、安心して歩んでいくことができるのだと語られています。私たちは、自らの衣食住や将来のことを心配してしまいます。必要以上に心配し、思い煩ってしまいます。これは、神様が私たちに最善をなしてくださる、私たちの必要を満たしてくださると、神様を100%、信頼しきれないからです。私たちには御国が与えられると約束されています(32節)。御国とは、神様のご支配です。神様は私たちを確かに支配し、支え、守り、導いてくださっています。富を頼みとせずに、神様だけを頼みとする歩みをしていきましょう。
イエス様は再び、私たちの地に来られます。それが再臨です。再臨には2つの目的があります。「救いの完成」と「裁きの完成」です。キリストによる救いにあずかっている者にとっては、再臨は救いの完成です。私たちは、「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが」(第一ペテロ1章6節)、「イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります」(第一ペテロ1章7節)と約束されています。
この箇所には2つのたとえ話が記されていますが、どちらも再臨における救いと裁きの完成を語っています。1つ目は、婚礼に出かけた主人の帰りを待つしもべの話、2つ目は、強盗の侵入を防ぐ家の主人の話です。私たちは、このたとえから、主の再臨のために備えをしておかなければならいことを教えられます。「目をさましていなさい」と語られています。備えていない者にとっては、主の再臨は盗人のように思いがけない時に来るものであり、滅びにつながるものなのです。
しかし備えをしている者、主を信じ、主の再臨を待ち望んでいる者にとっては、再臨は救いであり、喜びです。聖書には、「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます」(37節)と約束されています。主イエス様ご自身が、自ら、私たちに給仕してくださるというのです。驚くべき事実です。最後の晩餐で主が、弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えてくださったように、私たちも天国で、主の晩餐にあずかることが約束されています。この再臨の希望、再臨の約束に堅く立って、歩んでまいりましょう。