イエス様は弟子たちに対して、「パリサイ人のパン種」すなわち彼らの偽善に気をつけなさいと語られます。「あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか」(第一コリント5章6節)とありますように、偽善の悪の感染力は非常に強いからです。
この「偽善」という言葉、ギリシャ語では元々「演技をする」という意味があります。舞台では他の人を装って、観客を相手にして振る舞います。パリサイ人は、そのような者たちでした。会堂で、人からよく見える上席を好んだり、人の集まる市場で、あいさつされることを好みました。つまり、彼らは神様を信じていたのではなく、人を相手にして生きていたのです。これが偽善です。
しかし、どんなに巧妙に隠されている偽善であったとしても、神様の御前では、すべてが明らかにされます。だから弟子たちに対して、パリサイ人の偽善に倣ってはならない、裏表のない者であれと語られます。
偽善者は人を恐れ、神様に対する恐れがありませんが、イエス様は弟子たちに、それとは正反対であれと教えられます。人がいかにキリスト者を迫害しようとも、からだを殺す以上のことはできませんが、神様は罪人をゲヘナに投げ込む権威を持っておられます。だから神様を恐れなさいと言うのです。
しかし、この権威ある神様はまた慈悲深い父であられます。5羽でわずか2アサリオン(1デナリを1万円とすると・・・2アサリオン=1,250円)のすずめ1羽であっても、お忘れになることはありません。愛されている私たち(=神の子)については、なおさらです。私たちの頭の毛さえも、みな数えられています。このようなねんごろな神様のみ守りがあるのだから、私たちは大胆に信仰を言い表すことができ、誰の前にあったとしても信仰の証しをすることができるのです。
偽善と人を恐れることへの警告に続いて、貪欲についての警告が語られます。貪欲は金銭や物質から幸福を得ようとして、必要以上に金銭や物質に執着し、それらを追及する生き方です。金銭や物質にしか目が行きませんので、神様をも隣人をも省みない自己中心な生き方になります。「その人のいのちは財産にあるのではないからです」(15節)。この真理を忘れてしまう時、私たちは貪欲に陥ってしまうのです。
遺産の分配の方法に不平を抱いて、イエス様に訴えに来た人は、金銭と物質以上のことに心が行かなかったため、兄弟げんかをしなければなりませんでした。彼は、「自分のためにたくわえる者」(21節)であり、このたとえの中の金持ちのように愚かな者でした。この世でどんなに蓄えたとしても、死んでしまった後では、その富は何の意味もたらしません。自らが死すべき存在であることをいつも覚え、富ではなく、神に目を向けていきなさい、イエス様はそのように教えておられます。