普段忙しくしてなかなか聖書を読むことができなかったり、また読んでいてもただ無意識に読んでしまいがちな面もあると思いますが、みことばを注意深く読むこと、また「主よ、お語りください」という祈りと共なるみことばに「聞き入る」姿勢がまた大切なのではないでしょうか。
主は、主の母・兄弟というのは「神のことばを聞いて行なう人たちです」(21節)ということを言われましたが、これは、別に実の母親のマリヤや兄弟たちに対してあまりにも冷たい、ということではなくて、みことばをよく聞いて、それを実行する人々こそ主の家族・兄弟姉妹であるということだと思いますが、先ずよく聞くことが大切、「聞き方に注意しなさい」(18節)とも主は言われました。
有名な、「種が蒔かれた地面のたとえ」の箇所ですが、なぜ群集に対して主が「たとえ」を用いて話されたのかといいますと、別に群集心理ではないのですが、群集の「興味本位だけであまりよく聞いていない態度」こそがまた問題なのではないでしょうか。とにかくたとえで話されるのは、「彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです」(10節)と主は言われました。
クリスチャンになっても、みことばの蓄えが少ないまま、あるいは長い信仰生活の経験があっても聖書を読むことを怠っていると、今回の有名な「たとえ」で主が言われているように、信仰が様々な試練や人間的弱さや誘惑の中で「踏みつけられ」(5節)たり、「枯れて」しまったり(6節)、「押しふさ」がれてしまう(7節)という経験は誰にでもあることだと思いますが、「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです」(15節)と主は言われました。
是非、「正しい、良い心でみことばを聞いて」主なる神様のご命令・教え・語りかけをいただき、それを行っていく、「みことばの実を結ぶ者」へと更に導かれますように。