ひとりの女が主イエスの食卓に現れます。彼女は町でもよく知られた罪深い女でした(37節の直訳)。遊女だったのかもしれません。町中の人々が、パリサイ人シモンと同じように彼女を見ていました。
ところが、主イエスだけは、彼女のなかに全く違う姿を見出していました。主イエスは、忍耐深い無条件の愛で、彼女を見つめていました。恵みのレンズをとおして、神の似姿に造られた“本当の彼女”を見ていました。たとえその姿が、彼女の罪と、町中の人々に貼られたレッテルとで、どれだけわかりにくくなっていたとしても・・・。
彼女はこれまで、神を神とも思わず、人を人とも思わず、罪に罪を重ねていたのでしょう。町の人々の評価が、彼女の人生を物語っています。けれど、彼女は主イエスに出会ったとき、自分がこれまでどれだけ神の一方的な無条件の愛を踏みにじってきたか、人の厚意を裏切ってきたかを、はたと示されたのだと思います。
そして、彼女のこれまでの罪にもかかわらず、なおも注がれる主イエスの愛、父なる神の愛に、涙せずに、何かせずにはおれなかったのでしょう(自分の罪を赦すため、全く新しく生まれるために、いのちまでも投げ出してくださった・・・。十字架の後に、彼女はその愛の計り知れないことを、さらに知ることになります)。
彼女は生まれ変わったのです!罪を赦す権威をお持ちの主イエス(49節参照)が、「あなたの罪は赦されています」(48節)とおっしゃいましたから。たとい周囲はまだ彼女にレッテルを貼り続けようとも、主イエスはおっしゃいます。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」(50節)
50デナリも500デナリも、2人とも返済できずに免除が必要であったことには変わりありません(41〜42節)。そうであるなら、隣人の“借金”を揶揄する者ではなく、赦された恵みに浴する者でありたい、と思うのです。