第13金曜【ルカ7:18-35】



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 「神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」(28節)とは、どういう意味でしょう。

 「女から生まれた者」(28節)ということばで思い出されるのは、ヨハネ3章です。ニコデモという宗教指導者が、神の国(天国)に入る者について、主イエスと対話する箇所です。そこで主イエスが「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3章3節)とおっしゃったのに対し、ニコデモは普通に誰もが考えるように「どのようにして?もう一度胎内に入るのですか?」と答えます。

 「もう一度胎内に」とは、「女から生まれた者」の延長線上、つまりその「中」(28節)で語るものです。しかし主イエスは、パラダイム・シフト、すなわち「目を天に転じて考えてごらん」とおっしゃったのだと思います。
 人は天国に入ろうと、一生懸命善行をします。少なくともパリサイ人など当時の宗教指導者たちはそうでした。しかし、真に、天の神を仰ぎ見、その聖さを知るとき、神から離れ反逆する己の罪があぶりだされます。どんなに善行を積んでも、それで罪が帳消しになるなど、ありえないことに気づきます。もし人が義と認められて、天国に入れられることがあるとするならば、それは罪と不可分の古い肉の自分が死に、まったく新しい人として生かされなければならないと気づきます。

 「女から生まれた者」、つまり生まれながらに罪のうちにある古い肉の人のままでは、天国に入ることはできません。たとえパプテスマのヨハネほどに善い行いに生きる人でも、「女から生まれた」ままであれば。だから、神の国に入れられる者であれば、どんなに小さい者でも、「彼」よりすぐれていると言えるのです(なお、「彼」とは「女から生まれた者」の代表と解し、ヨハネ自身が天国に入れたか否かは私たちの判断すべきところではないと考えます)。

 人には様々なすぐれた面があります。財をなしたり、人を助ける政治をしたり、発明・発見をしたり、人を感化したり・・・。しかし、他のものと本質的に次元の異なるほど人にとって大切なのは、天国に行くことだと思います。もし、「今晩死にますよ」と言われ、周りのものがすべて振るい落とされ、最後に残るものを考えてみると、そう思います。
 そして、天国に行くには、救い主イエスによる罪のあがないと赦しを信じて新しく生まれる他にありません。
 だから、主イエスにつまずかない者でありたいのです(23節)。律法を、自分の正しさを証明する道具とするパリサイ人・律法の専門家(30節)ではなく、律法により罪示されて悔い改める取税人(29節)でありたいと思うのです。