第13木曜【ルカ7:1-17】



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 百人隊長とは、当時ユダヤを支配していたローマ帝国において栄誉ある職務(キャリア官僚)でした。しかもこの人は、神の民に善を施し、神の恵みを受ける「資格のある人です」(4節)と、長老たちも推す人でした。

 けれど、百人隊長自身は、主イエスを家にお迎えする「資格」すら自分にはない(6節)と述べました。そこには、イエスを主と認める百人隊長の信仰がありました。確かに、家(城)にしもべを呼びつけるのは主人(王)であって、しもべが主人を家に呼びつける資格はありません。イエスを主と認めていたからこそ、彼にとっては家にお出でいただくなど、恐れ多いことだったのです。

 と同時に、おことばさえいただければ、必ず癒される(成就する)とも信じていました。主イエスのことばが、すべて成就する神のことばであると信じる信仰。この世界が神のことばで造られたことを悟り(ヘブル11章3節、創世記1章)、主イエスのことばが、その天地創造の神のことばと同じであると信じる信仰だったのだと思います。

 そのように考えると、百人隊長は、主イエスの権威を、ただ単に「偉大な主人」というのではなく、明確に「生ける神の御子キリスト(救い主)」として認め、その権威の下に恐れ、へりくだっていたとも考えられます。十二使徒の告白の前、主イエスの宣言の前にもかかわらず(マタイ16章15〜21節)。だからこそ主イエスも驚かれたのかもしれません(9節)。

 神のかたちに造られた人間(創世記1章27節)は、神と同じくことばを用います。しかし、人のことばは氾濫し、天地を震わす力もありません。エデンの「罪」とともに、神のようにことばを用いることも、できなくなってしまったのかもしれません。
 しかし、主イエスのことばは、百人隊長の信じたとおりでした(10節)。人にいのちをあたえるものでした(13〜15節)。福音書に描かれた癒しの奇蹟の真髄は、「ことば」にこそあると知ります。