17節〜49節は「平地の説教」と言われます(17節に「山を下り」とあるので)。ただ内容は、マタイ5章〜7章の「山上の説教」とよく似ています。主イエスの教えの核心は一貫して同じことから、似たような説教をいろいろなところでなさっていたのかもしれません。そのメッセージは、国を越え時代を超えて、今の私たちにも同じく語りかけます。
山上の説教の「八福の教え」(マタイ5章3〜12節)に似た、4つの幸いと4つの哀れで、始まります。
前者(a)と後者(b)は表裏です。両者が入れ替わることを恐れるから、後のために今、貧しく泣き悲しんで歩むべきなのでしょうか?なんだかそれでは、安息日には何もしてはならないとするパリサイ人たちの生き方(1〜11節)に似てきませんか?違反しない“自分”を守ることに必死で、なぜ律法を守るのか(神を愛するため)という真意を見失う生き方に・・・。
聖書では、富や喜びは、神の祝福のあらわれとして随所に言及されています。でも、たとえ今貧しくても、「神が必ず祝福してくださる」と、聖書の約束を信じて、へりくだって待ち望む者に、神の慰めは必ずあることもまた、真理です。逆に、神の祝福を受けていても、富や力におごり、神の前にへりくだる(自分を神とせず、神を神とする)ことを忘れるとき、たちまち哀れな者となることを、主イエスは警告されたのだと思います。
富んでいても、貧しくても、どのようなときにも、心の王座を神に明け渡し、神のご支配にへりくだる人に、神の国は開かれています。