「論語読みの論語知らず」であってはいけません。文字だけを読み、憐れみの心を示さなかった律法学者たちに、イエス様は逆に、常識的な質問をされました。「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか」
律法学者たちは初めからイエス様を訴える口実を見つけるためにイエス様をじっと見ていたのでした。みことばに聞くとき、また見るときに、固執する自我の目であたってはみことばの本質が見えなくなります。「文字は殺し、御霊は生かす」(第二コリント3章6節)のです。
主のことばには力があります。「手を伸ばしなさい」という命令を信じた者には力ある働きがなされるのです。不平や不満を持つ人には力が与えられません。
心の内側を照らしていただきましょう。
イエス様に従った人々は3グループに分けられます。大勢の人、多くの弟子たちの群れ、12人の使徒の3つです。
そして、12人の使徒を任命するには夜どおしの祈りが必要だったようです。特に、この弟子のなかでいずれ裏切るであろうイスカリオテのユダの任命は試練であったことでしょう。しかし、イエス様はここでも神のみこころを遂行するために、祈りのなかで勝利されたのでした。
祈り、示されるみこころは、自分にとって決して嬉しいものとは限りません。むしろ、嫌な決定をしなくてはいけないかもしれません。しかし、祈り、平安をいただけるまで祈りぬく姿をイエス様にみます。祈りぬける信仰をいただきたいものです。
イエス様のもとには大勢の人々が集まってきました。その人々へ語られる内容に注目してみます。「幸い」な人と「哀れ」な人についてお話されています。貧しい人や飢えている人が幸いであったり、富んでいる人や食べ飽きている人が哀れであったり、と逆説的なことを教えられました。イエス様は、この世の富に幸福を求めず、神の国に喜びを見出しなさい、と教えられました。
神の国について、ルカは来世のこととしていません。「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(17章21節)。自分の内面が神に支配されていることを認めたとき、物質的に貧しく、肉体的に飢え、悲しみに泣いているときにでも幸いを見出します。
みことばから得られる恵みをいただかなければ、物質的なものへと流れてしまいがちです。みことばからの源泉をくみ出せる者として整えられていきましょう。