収税所のレビは、マタイです。後に十二弟子の一人となる弟子マタイが召命を受けました。レビは、召しを受けた後に自分でお別れパーティーを開いています。「わたしについてきなさい」との召命に従ったレビは、収税という仕事では得られなかった満たしのために転職しました。レビの招きに集まった友人や仲間は、どうやら飲み食いをしてあたたかく送り出そうとしています。こうした生活の延長にある伝道をイエス様は受け入れられました。
彼らを受け入れられなかったのはパリサイ人や律法学者たちです。取税人や罪人たちといっしょに飲み食いをしなかった彼らは、汚れると考えていました。よもや、彼らの交わりのなかで神様が証しされているとは思いもしなかったのです。
私たちが必要としているのは、日々の生活のなかで生きたみことばです。証しや伝道は、そのために特別なことをしなくてはいけないというものではありません。生活に接している、職場の人々、家族の一人、友人の語らいのなかこそ、証しする機会です。みことばを必要としている同僚、家族、友人を覚えて、交わりのなかでイエス様を証できるよう、整えられたいですね。
律法学者やパリサイ人の不満が募るにつれて、イエス様はご自分がどのようなかたちで死ぬか、ということをすこしづつ語り始められました。レビの家でなされたパーティーにおいて、断食というわかりやすい宗教的敬虔を持ち出して、ヨハネの弟子たちと比較して不敬虔さを暗に指摘するのです。
これに対してイエス様は、形骸化していた宗教の様式から新しい喜びの生活様式を強調されました。宗教の儀式や伝統はイエス様が共におられる喜びが中心とならなければ意味がありません。このときは彼らに、「やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します」と、イエス様が十字架にかけられたとき、弟子たちが断食することを諭されました。
パリサイ人の断食は、目に見える敬虔さを積むことでした。それは、もはや喜びや感謝から来るものではなく、形骸化されているものだったようです。しかしイエス様は、ご自分が共にいることの喜びが中心であることを教えられました。
こうした新しい教えを入れるためには、心に「新しい皮袋」が必要であることを教えられます。形式的になりがちなデボーションや祈りを、「新しい皮袋」を用意して、祈り、感謝をささげたいです。
ユダヤでは収穫のとき、そのいくらかを旅人や貧民のために残しておくべき律法があり、穂を摘んで食べることは許されていました。しかし、パリサイ人たちは律法を自己流に解釈して煩雑な規則を設け、穂を摘むことは収穫と同じだから安息日を犯すことだとして咎めました。
それに対してイエス様は、旧約聖書の民族的英雄であるダビデの生涯からわかりやすく説明します。安息日の律法に縛られるのではなく、いのちの大切さを忘れないように、と教えられました。
もっともらしい話や教えが、私たちの周りにはたくさんあります。しかし、何が神様のみこころなのかをしっかりと捉えて歩ませていただきたく思わされます。