イエス様の伝える「神のことば」に群集の関心は傾いていきました。マラキの時代以来、途絶えていた「神のことば」に人々は熱狂し、ゲネサレ湖へとイエス様に押し寄せてきます。ペテロが漁夫をしていた湖はガリラヤ湖と呼ばれることが一般的ですが、ここではゲネサレ湖と紹介されています。
ペテロは4章38節から弟子入りしていると考えられるので、なじみの「先生」のお願いを快く承諾したことでしょう。そして、みことばの恵みをイエス様のすぐそばであずかっていたことと思います。しかし、「先生」はペテロにだけに、さらにみとこばへの応答を求められました。求められたのは、さらに深みに漕ぎ出すことでした。ペテロは培ってきた漁師としての経験があるにもかかわらず、そのことばに従いました。人の手の業である誇りや経験、人の努力の先にある主の御心があります。
主への献身、みことばへの応答は、何度もくり返され、献身も日々新しくされます。そして、今も信仰の深みへと漕ぎ出すように命じられています。
らい病人が求めたものは、「きよさ」でした。罪や汚れを感じている人であればこそ、内省的にきよくなりたい、と思うものでしょう。遠慮がちにひれ伏し、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」と申し出たのでした。そんな病める人へ、イエス様はわざわざ手を差し伸べて彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われて直ちに癒されました。
イエス様のきよさに対して気おくれするような汚れのなかにあったとしても、あわれみをしめして手を差し伸べてくださるお方です。そして、イエス様の心は私たちに伝染するように拡がります。
情熱をもった人々が、大ぜいの人をかき分けて屋根の瓦をはがし、友人を寝床ごとイエス様の前につり降ろしました。イエス様はその信仰をみてよしとされ、そしてまず罪の赦しをお与えになりました。これを聞いた律法学者とパリサイ人たちが、罪の赦しの権威について不満をいだくのです。
イエス様は彼らに問いました。「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらがやさしいか。言うだけならば、「罪が赦された」というほうが簡単です。罪の赦しは目に見えませんから。しかし、イエス様の目は、目に見えない、連れてきた友人たちの信仰、中風の人の内面にある罪、律法学者やパリサイ人たちの心の中を見ておられました。神様の目からみれば罪の赦しがどんなにたいへんなことであったでしょうか。
みことばは、目には見えない私たちの心のなかを照らします。目に見える証しに急くことなく、まずは日々みことばに耳を傾け、悔い改めの結実を自分のものとし、それがゆえに証人として用いられますように。